人間関係についての思考の整理
序論
ルール①「なるべく簡潔にまとめること」。思い出したり、網羅的に補足しようとして説明的になることが多いため。抜けが多くてもいいから簡潔にまとめたい。
ルール②「テーマごとにまとめる」。ぐちゃぐちゃにならないように、重要そうなキーワード別にまとめる。
ルール③「うまくまとまらなくても気にしない」。一筆書きでおおざっぱに思考をまとめる目的で書くので、伝わるかどうかとか文章のうまさとかはそんなに気にしないで書く。
居させていただく
「あなたと居させていただく(もしくはコミュニティに)」という意識が肝要であるように感じる。
距離感がバグっている人同士は、すぐに仲良くなることがあるが、すぐに仲が悪くなったりする。
たぶんだけど、お互いがお互いへのリスペクトが足りないからだ。「私たちは別の人間であり、別の感覚や考えをもつまったく前提の違う人間である」そういう認識が足りない。
お互いがお互いに危害を加えずに安心してコミュニケーションできるよねと思えるような関係性をつくることが、持続的でかつ深いコミュニケーションを可能にするように思う。
ゆっくりと近づいていって、たまに距離を少し取ったりしながら、また少しずつ気付かない程度に近づいていき、お互いが負担にならない程度の距離に落ち着けばいい。
私の友人に「私はこの場に居させていただいている」という感覚をもっている人がいる。私はそれを素晴らしい感覚だと感じる。それはおそらく相手へのリスペクトがあり、自身の足りなさを自覚しているからである。理解し合えなさを受容し、自らそこに溶け込めるようにがんばっている、そういうところを尊敬している。
居させていただくために、儀礼的にふるまう。余計なことはせず、毎日すこしずつ徳を積む。
そうやって他人にちょっとおおくのコストを割かせてしまっても許される関係を目指す。無理ならちゃんと挨拶をして相手が喜ぶことや相手がやりたくないことをやる。大きなミスをしないように日常を設計する。なるべく私はそう動くようにしている。
きっと、当たり前に甘えが許されると思っている人は、身体が弱いand/or人と関係性を築くことを疎かにしてきたからだと思われる。
ギブなきテイクはダメ。自然にギブしてる人は許されるけど、それができない人はちゃんとギブしなくてはならない。場にいるために、その人と一緒にいるためにコストを支払う。その必要がある。
テイカーは嫌われて避けられたり、パージされる。
その人と一緒にいたいなら、その場にいたいのなら、ちゃんとギブしよう。
危害を与えるやつは論外。近寄りたくないと思われて終わり。
私の課題。私は、人と、または場に、居させていただけるように、コミュニケーションのやり方を組み立てていきたい。
これまではなんとなくまわりのやり方を身体が勝手にトレースすることでそれっぽく振る舞えてきたけれど、言葉で整理してあるていど構造化して、且つその技術を使いつづけないとうまく使えないことがわかった。
毎日つづけていることだけが身を結ぶ。そう信じて毎日そればかりをやっていきます。
人が希望です。
浅いコミュニケーション
私は深いコミュニケーションを追い求めてきた人間である。しかし、深いコミュニケーションとは、一気にバグった距離感でおこなっても持続的ではないことがわかった。
対談屋という名前で他人から見ても自分でもよくわからない活動をしてきたけれど、一気に距離が縮まることの危険性を理解した。
これまでもいまも安全な場が与えられてこなかったのにいきなり安全すぎる場を与えられた人間は、ガチ恋する。これは俺の魅力ではなく、構造的な問題である。
何度もガチ恋されてしまったが、私は相手のことをまったく何とも思っていなかった。これもまた構造的な問題である。
私は誠実に話を聞くことはするが、自分の意思で相手と持続的に関わろうという気持ちは別になかったのである。
それは、相手が私が選んだ人間ではなく、また相手が私を選んだわけでもないからである。通常は、コミュニティの中で、お互いに選んだ相手と関係性を深めていぅたりすることが多いと思うが、そういうお互いの了解がないのだ。儀礼的なコミュニケーションを通じて、安全性を確認してからその先へ進むはずが、その過程をすっ飛ばしていきなりその人の人生や感覚の話を深く聞いてしまっていた。
だから、非対称的で歪な関係性が生まれてしまっていた。
私はただ自分や他人の構造が知りたくて誠実に話を聞いていた。ただデータを集めたかったのと、安全な関係が欲しかったのである。
が、そもそもの構造的に、安全な関係性を手に入れることが叶わない構造になっていた。前述した通り、私が選んだ人間ではないからである。私は相手の何かを評価して懐に入れたわけではないのだ。
データは集められた。相手を鏡として自分のことが少しずつ見えるようになった。金をもらいながらそれができたのは、幸運だった。ありがとう。
いまは謎に友達として定期的に遊んでくれる人たちがいるのだけど、それはお互いがお互いを選んだ関係性だ。理由は何であれ、私と会って関係を続けることを選んでくれた人間だ。
だから、関わりつづけたいと思える。だからコストを支払おうと思える。大事にしていきたいと思える。
金をもらい話を聞くのではない。私が相手のことを好きだから話を聞き、私が相手のことを好きだから自分のことを話すのである。すべては私の相手への好意によるものである。
相手がどう思っているかはさておき、私は相手のことが好きで付き合っている。だから、続けられるのだ。金をもらわなくても。
それに、人と会うことをつづけてきて、段々と浅いコミュニケーションの重要性がわかってきた。
わざわざその人が語るその人の人生のすべてを聞こうとする必要はない。
一緒にいて、何気ない会話をしたり、体験を共有したり、反応を見たりすることで、自然にその人のことが少しずつだがわかってくる。
これこそ私が求めていた深いコミュニケーションなのである。
延々と人生について語り合うばかりの関係なんて続くはずがない。客とも結局はそういう風になっていった。深い話なんてそんなに必要ないのだ。
浅いコミュニケーションを通じて、その人を知っていけばいい。
私は対談屋という活動を通じて、そんなごく当たり前のことを知ったのでした。
オタクトーク
とにかくオタクトークがしたい!
これは俺の強い欲望である。
相手のことを知るのも楽しいが、やっぱり自分が情熱を持てることについて愛を込めて語りたい。
好きと大好きの違いについて問われて、感情的に「好きってのは『あぁ、まぁ好きだよ』くらいのテンションだろ?でもさ、大好きってのは…こう…内側からグワっともりあがってくるものなんだ!」と熱く語ってしまった。
会話の中で感情的な盛り上がりがあるのは大切なことだ。そうやって熱く何かを語る人を見ると、私も熱くなってきたりする。
熱が欲しいな。パッションをやろう。爆発してえ!
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