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暗澹を祓う 第三話

「亘、ちょっと来てくれ!」
 長屋で筆を握り、火除けの札を書いていた亘は短く嘆息した。
 今度は一体なにをやらかしたのか。
 硯に筆を置き、紙をまとめて立ち上がる。
 アキがやってきて十日ほどが過ぎた。同じ長屋の住人には、「遠縁の子を預かった」と言っているが、すんなり納得してくれる者ばかりではない。中には、訝しげな視線を送ってくる者もいる。長屋での孤立は避けられないと思っていたが、思いの外そうならなかった。
「ほら、早くしないか」
 どこか尊大な口調ではあるものの、そこに見下すような感情はない。土間で下駄を履いた亘は、戸から手招きするアキについて行く。
「今度は何だ」
 そう言えば、アキは不服そうに亘を見上げた。
「何だ、その言い方は。まるで私が厄介事を持ってきているようではないか」
 実際その通りだったのだが、亘は言葉を飲み込んだ。アキは、その見た目からかあまり警戒心を抱かせない性(さが)らしく、近隣から困っている話を集めては、亘を同行させた。
「飼い猫が人語を理解しているようだ」「火の玉が真夜中に飛んでいて寝られない」といった祓い屋の仕事になりそうなものばかりだったが、実際蓋を開けてみるとただの愛猫家の妄想だったり、意中の相手が夜出かけていないか確かめるために出歩いていたときの灯籠だったりと祓い屋の出る幕でないことばかりだった。
 もちろん、依頼ではなくこちらが勝手に首を突っ込んでいるだけなので報酬はない。毎日のようにアキが引っ張り回すから、江戸の町を駆け回るはめになる。それはもう疲れる。金にならないとなれば、倍の疲労感がのしかかった。
 だが、顔を覚えてくれる人が増えたのはたしかだ。
 それに、悩みの種を解消してくれた人間に敵意を持つ者はそういない。だから、亘たちは長屋で完全に孤立することは避けられた。
 アキのおかげ、と言われればその通りなのだろう。
 亘にとって、アキは未だ性別不詳のままだが、どちらでもいいと思う自分がいることに驚いた。周囲の様子から、少女と捉えている者も少年として対応している者もいるから、その人の受け方次第なのだろう。
 本当にどうしようもなく気になるのなら、本人に直接問う。けど、亘自身そこまでではないので、この件で思考することをやめた。
 先頭を行くアキの後ろ髪が、嬉しくて尻尾を振る犬のように揺れ動く。それを目で追っていれば、アキが振り返った。
「今、表通りの歩いていた棒手振りから聞いたんだがな、神田明神のあたりで鬼女が出たらしい」
 今度は鬼か、と思う。同時に鬼に塩は効くのかと不安がよぎる。そんな亘の気持ちなど知らないアキは、さらに言葉を続けた。
「睦月に入ってから目撃されているらしくてな。鬼が出たという話があがる度に神職が場を祓っているらしい。が、鬼女はなかなか消えてくれないそうだ」
 神田といえば、西洋料理店「三河屋」がある。客足が遠のくのは、店側からすれば困るだろう。西洋人ならその程度の噂気にしなさそうだが、鬼が異国の人間を殺せば国際問題に発展するのは必至だ。今の幕府にそれを対応できる力があるのか、正直怪しい。
「お主、鬼を祓ってみないか?」
 ――簡単に言ってくれる。
 無論、アキに悪気はない。ただ、どういうつもりで噂や話を集め、亘を巻き込むのか。その真意は理解できない。
 家に帰らず居座り続けていることへの罪滅ぼし――だろうか。
 アキは亘が祓い屋だと知っている。同時に、代金を払われず逆に命を狙われたことも知っている。こちらの懐事情を察するには十分だろう。
「自信はない」
 無理だ、とは言えなかった。だが、アキは「大丈夫だ」と胸を張って言う。
「私が教えてやる」
「お前が?」
 アキは深く頷いた。
 亘は、アキの旋毛(つむじ)を見下ろす。黒い髪はよく手入れされ、光沢を放っている。
「お前は祓い屋の子なのか?」
「違う」
「じゃあ教えられないだろう」
「何を言う。教えると言った以上、できるに決まっているだろうが」
 アキは唇を尖らせる。幼い子供のような反抗の仕方が、ますます年齢も性別もわからなくさせる。
「とりあえず、神田に行ってみようか」
 アキは元々そのつもりだったのだろう。止まることなく先頭を行くアキの足は、まっすぐ神田に向かっている。
 本当に鬼女がいるかどうかはともかく、今仕事は少しでも増やしたい。
 食費が増えたのだ。アキは寝床だけで十分と食事を遠慮したが、みつきがそれを許すはずもない。
 北風が、頬を刺す。無数の小さな棘が飛んできては当たるような痛みが、風が吹く度起きる。ふっと息を吐き、両腕でかき抱きながら自身の体を縮ませた。
 亘が洟をすすりながら頬を赤くする一方、アキは子犬のように寒さなど感じない笑みを浮かべていた。
 神田は、職人気質な町人地と武家地の中間地みたいな場所だ。神田明神が座することもあり、神社詣のために人も集まるのだが、治安が悪いといった話はあまり耳にしない。祭神に平将門が奉られているのだから当然といえば当然かもしれない。
 神田といえば祭りだ。将軍家の行事として町中を列をなして歩く練物(ねりもの)や楽車(らくしゃ)などを出す盛大な祭りが九月に行われる。祭りの時期になるとさらに活気にあふれ、人々の熱気に包まれる。江戸の人間ならば知らない者はいない一大行事だが、近頃の世の中の情勢を思うとなくなってしまうのではないかと不安しかない。
「鬼女は、どのあたりで出たのだろうな」
 アキは、前を向きながらぽつりとつぶやくと突然走り出した。
 待て、と言葉を吐く間も与えてくれない。人混みの中をするりと行くアキを亘は追う。新雪を思わせる白い着物を来た美麗な若者が、突然横を抜けていけば驚くのは当然だろう。老若男女問わず、惚けたようにアキへ視線を向ける者は多い。
 亘は常人よりも背が高いため、その様子がよく見えた。
「別嬪さんだ」と言う男性がいれば、「将来が楽しみな子ね」と頬を染める若い娘もいる。声をかけようとしている者もいたが、亘の存在に気づくと慌てたように去っていく。
「少し聞きたいことがあるのだが」
 アキは、客を見送っていた菓子屋の女に声をかけた。四十代後半くらいの女は、アキを見て目を丸くするとすぐに破顔する。
「お使いかい?」
 その問いかけに、アキはくるりと首を回しようやく追いついた亘を見上げた。その目は「饅頭が欲しい」と訴えている。
 アキは家ではあまり食べないが、ひとたび外に出ると屋台の食べ物を欲しがった。
 あれは、アキがやってきて三日ほどが経ったときだ。
噂を拾い、亘を連れ出し、結局その原因が他愛もないことだとわかった帰り。食事をあまり取らないアキを心配した姉に頼まれ、尋ねたのだ。「オレの作る飯は口に合わないか」と。すると「そうではない」と慌てた様子で首を横に強く振った。その際、長い髪先が勢いよく亘の着物に当たったことを思い出す。そして、少し目を伏せたあと言いにくそうに口を尖らせた。
「――怒らないか」
 何を言っているのかわからず、眉間を寄せればアキは「くだらないと怒らないか」と言う。
 亘は頷きながら、眉間の皺をもむ。それを見て、アキは伏せた目を上げた。
 大きな黒い瞳に亘が映る。瞬きをする度に、長いまつげが羽ばたく鳥を思わせた。それは幼子のように愛らしく思う者もいれば、独占欲をかき立てるほど艶めかしく感じる者もいるだろう。
 しかし、亘は依頼主の屋敷の離れでアキと会ったということもあってか、心のどこかで得体の知れない者という感覚がある。アキに対する嫌悪感というわけではない。ただ姉を含め、周囲の人間が簡単に絆される様子を見ていると、ますます言葉に表しにくい不安のような警告のようなものを感じる。
 アキはそんな亘の感情など露知らず、何度か視線をさまよわせたあと、意を決した様子で口を開いた。
「た、食べたことがないものは、た、食べてみたい。そ、そう思わぬか?」
 亘はもう一度、漬け物を咀嚼するように、今聞いた言葉を頭の中で繰り返す。
 食べたことのないものを、食べたい?
 そばを食ったときのアキの顔は、まだ記憶に新しい。だが、これから先もそう簡単に消えそうもないだろう。
「つまり自分の食費は、食べたことのない物に当てたい、と?」
 口にすれば腑に落ちた。
「お、お主! な、なんて意地が悪いのだ! 口にしなかったことをわざわざ言うなんて!」
 真っ赤な顔でそういうアキを見て、亘はふっと鼻で笑ってしまった。
 すぐさま、アキの頬がぷくっと膨らむ。
「怒らぬと言ったのに!」
「怒っていないだろう」
 さすがにその言葉は聞き捨てならなかった。しかし、一度損ねたアキの機嫌は、そんな言葉では戻らない。ふいっとそっぽを向く仕草は、完全に小さな子供だ。
「どうせ心の内で私を笑ったのだろう? 許せん」
「待て待て。笑っては――まあ、しまったが馬鹿にしたわけではない」
「じゃあなんだ?」
 今度は亘が口ごもった。
「ほら、やっぱり言えぬではないか」
 半眼で睨むアキの機嫌をこれ以上、損ねたくはない。もし、このままの状態で長屋に戻れば必ずみつきが気づく。そうなれば、みつきはアキの味方をするだろう。姉に責められれば、亘に逃げ場などない。
 堅く引き結んでいた唇が僅かに開く。往来のある場所で、声を張り上げていたせいだろう。先ほどから視線が刺さる。西洋人のように見える男と見目麗しい大人とも子供ともつかない者の組み合わせは、何もしていなくても人目を集める。
 ――あまり聞かれたくない言葉なんだがな。
 亘は、膝を折るとアキと目を合わせた。美しいものを描く絵師が見たら、その拗ねた顔すら描き起こしたい衝動にかられるだろう。だが、その顔を見つめる人間は、羞恥心を押さえ込むことで精一杯だった。その強ばった顔は、端から見れば怒っているように見える。しかし、アキは恐れることなく、同じ目線になった男を射抜くように見つめた。
 きりりとあがった眉に、強い光を宿す視線は、さっさと説明しろ、と雄弁に語っている。
 亘は、険しい表情のまま自身の口元に手を添えた。声を潜めて言いたいときの動作だ。アキも心得たように、耳を寄せる。
 人目が一気に集まった気がしたが、亘に気にする余裕はない。端から見れば、亘の顔は怒っているように見えるが、その頬は僅かに赤い。
 すっと吸い込んだ冷たい空気が、熱くなった体を少しだけ冷やす。そして――
「愛らしいと思っただけだ」
 と囁いた。吐き出してしまえば、すっと気持ちが軽くなる。人目がなければ簡単に口に出せたのだがなと思いながら、眉間の皺が薄くなった顔で、さっさと立ち上がる。
「これで気は済んだだろう。さっさと戻らないと姉さんが心配する」
 二歩、三歩と行く亘とは対照的に、アキはその場から微動だにしない。
「どうした。具合でも悪いのか?」
 戻ってそう言った途端、アキは勢いよく顔を上げ、亘を睨んだ。その顔は熟れた林檎のように赤い。
「お主は阿呆だ」
 突然そんなことを言い出すものだから、亘は目を瞬かせた。上の姉弟が下の姉弟を可愛がるようなものだろう、と口を開きかけた亘より先にアキが言う。
「お主の姉に今のことを話されたくないなら、あれを買え」
 そう言って、アキは煮物を扱う屋台を指さした。大根や株といった根物野菜をじっくり煮込んだ屋台だ。歩き回ったとはいえ、寒空の下。体は冷えている。
「なぜだ」
 亘はアキの望むとおりきちんと伝えた。なのに、どうして機嫌はさらに悪化しているのか。理解できない。
 しかしアキは「己の頭でよく考えろ」と冷たく突っぱねるだけだ。姉の前で言いたくなくて今、正直に伝えたのに、と肩を落とす。
 仕方なく買ってやれば、アキは目を輝かせて極上の一品を楽しむように、ゆっくりと丁寧に味わって食べた。
「美味だった」
 ぺろりと唇をなめとるアキは、どうにか機嫌を戻してくれたらしい。懐は痛いが、そんなに大金でもない。小銭を落としたようなものだと考えようと、胸の痛みを慰めていると、アキがこちらを見た。途端、嫌な予感がよぎる。
「なあ、お主」
 ごくりと生唾を飲み込む。アキは獲物を前にした強者のように口角をあげると「今度はあれがいい」と明るい声で言う。その言葉の裏に「姉に話されたくなければ」という声が聞こえた気がした。
 亘は短く嘆息すると、饅頭一つ分の小銭を出した。女は「お待ちくださいね」と言って店の中へ入る。すぐに持ってきた饅頭ひとつをアキの手の上に乗せた。
 白い皮に店の焼き印が入った饅頭は、まだ出来立てなのかわずかに湯気が立っている。
 アキは、匂いをかいだあと「甘そうだ」と呟いてから頬張った。途端、口いっぱいに小豆餡の味が広がったのだろう。「んー!」と声にならない音を出しながら、目を細めた。
「そんなに喜んでもらえるとこっちも嬉しいよ」
 あとでうちの旦那にも言っておくね、と女は満面の笑みで言う。アキは指先もちろりと舐めると「すばらしく美味だった」と口にした。
「金が入ったら、また来よう」
「ぜひ来てちょうだい」
 アキと女は和やかに言葉を重ねる。亘は、それを少し離れた場所から眺めていた。菓子屋の女から笑みを引き出したのはアキだ。亘がその輪の中に入ろうとすれば、女は自然と表情を強ばらすだろう。
 時折、アキがこちらに視線を送るが亘は無視を続ける。ここからでも十分声は聞こえる。
「最近、このあたりで鬼女を見たって聞いたのだが、知っているか?」
 アキの質問に、女は陰りの差した顔で「ああ知っているよ」とすぐに答えた。
「ちょうどこの次の角を右手に曲がったところで、出たらしい。――それもちょうど昨夜」
 声を落として女は言う。なんでも白い着物を着た老女の鬼らしい。皺の刻まれた青白い顔に細い体、白い着物と一見、容貌は幽霊のようだったらしい。
「だけど、頭から二本の大きい角が生えていたらしいよ」
 アキは礼を述べると、子犬のように駆け寄ってきて亘の手を取る。
「行くぞ」
 思わぬ行動に、つんのめりながら亘も走った。
「おい、引っ張らなくとも逃げはしない」
 遠回しに離せと言ったつもりだったが、アキは聞く耳を持たなかった。そもそも理解できたのかもわからない。大の男が、見目麗しい若者に引っ張られる姿は、振り回されているようでさすがに恥じらいの感情がわく。
 アキを女だと思った者からすれば、若い女房に振り回されているのだと思われただろう。それは、江戸の男の沽券にかかわる。
 だが、幸いにも引っ張られる距離はそう長くはなかった。なにせ、目的地はすぐそこの角。目に入っている。
「何もいないな」
 角を曲がってすぐに立ち止まったアキは、そう呟く。
「それはそうだろう」
 離された手が、余計に冷たく感じて腕を組んだ亘は、路地の隅にある盛り塩に目がとまった。もう、清めの儀式は済んだらしい。ゴーンと鳴る時の鐘の音で今が申の刻と知る。
 この場所に鬼女が出た噂は広がっているのだろう。人の姿がまるでない。
「丑の刻に来てみるか?」
「ダメだ。木戸が閉まっているし、姉さんが心配する」
 将軍のお膝元である江戸は、今安全な場所とはいえない。新政府軍と幕府軍の緊張状態は今も続いている。何が起こるかわからない情勢下だからこそ、夜中に出歩き斬り殺されていても文句はいえない。みつきもそれがわかっているから絶対に反対するだろう。亘はうまく説得できる自信がない。
「ならここでやめるか?」
 アキがそう言ったときだ。
「ちょっとあんたたち、いくら清められたからってすぐに近づいちゃだめだよ!」
 先ほどの菓子屋の女だ。走り出した亘とアキが、この角を曲がるのを見て追いかけてきたらしい。
「まだ鬼の呪いが残っているかもしれないだろう」
 心配してきてくれたのだろう。そう言いながら、早くこちらに来るよう、手招く。
「そう心配しなくとも、そんなものはないのに」
 アキはそう独り言のように言葉を落とし、子供の我が侭につき合う大人のような視線で菓子屋の女を見る。
 ――この者は、鬼や呪いは存在しないと思っているのか?
 亘の背丈ではアキの顔はよく見えない。なら、先ほど言っていた祓いの技術云々はなぜ知っているのか。ますます訳がわからなくなる。
 ただ、この子供に悪意はない。それが何より大事だと亘は思う。
 アキの後ろに続くように亘もついていく。忠告を聞き入れてもらえたことに安堵したのか、大通りに向かって歩く二人に、菓子屋の女はいろいろと話しかけてくる。
「せっかくだし、身を清めるためにも明神様へ詣でた方がいいわよ。何かが起きてからだと遅いからね」
 まだ両親が健在だった頃、何度か詣でに行った記憶がある。祭りはもちろん行ったことがあるし、その混み具合も深く印象に残っている。
 本当に鬼女なら日中でなく夜に出るだろう。報酬が見込める仕事でもない以上、姉に心労をかけることをするつもりはない。
 鬼女がいようがいまいが、正直興味はない。
「あんたら、鬼女に興味があるのかい?」
「そうだ」
 アキが元気よく頷く。
「まあ、若いから怪談話に興味がわくのはわかるけど――ほどほどにしておきなさいよ。実際、おかしくなっちまったもんの話は聞いたことがあるからねえ」
 商売をしている以上、いろんな話が耳に入ってくるのだろう。ましてや、神田明神のお足元。神にすがるしか方法がない者が集まってくる。
「それに、羅(ら)残(ざん)っていう祓い屋がこのあたりを見回っているそうだから、近いうちに出たって話もなくなるだろうさ」
「羅残(らざん)?」
 幻聴かと思い聞き直せば、菓子屋の女は「そう」と頷く。
「江戸で有名な祓い屋らしくてね。修行を積むために全国を練り歩いた僧侶を先祖に持つらしい。仏のように御心が広く、慈悲深いお方だって噂だ。それに加え、かなりの男前らし――」
 そこで女は言葉を切った。亘の顔を見て、一歩二歩と後ずさる。
「どうかしたか?」
 アキが尋ねた途端、「な、なんでもないよ」と震えた声で返すと「とにかく、気をつけて帰りなさいね」と逃げ去りながら言った。
「なんか、様子がおかしくなかったか?」
 そう言って亘を見上げたアキは、短く息を吐いた。そして、幼子をあやすように亘の背中を叩く。
「お主、表情が堅くなっているぞ。何か嫌なことでもあったのか? たとえば、握り飯が落ちていると思って拾ったら石だった、とか」
 それはさすがにない。だが、今自分の顔が強ばっている自覚はあった。
「――すまない」
「なぜ謝る?」
 アキは、本当に不思議そうにこちらを見ていた。頭が一つ、二つ分背が高い亘の顔は、周囲からよく見える。先ほどから、前からやってきた人々が短い悲鳴を上げ、避けるように歩いているのを亘は知っている。
 ――鬼睨みの亘。
 吐き捨てるように言う声が、聞こえた気がした。
 片手で両目を覆い、もみほぐす。
「なあ、なぜお主が謝るのだ?」
 どうやら、この子供は見逃してはくれないらしい。だが、説明するのも億劫だ。それに、気の進む話でもない。
 無視を決め込むことにした亘は、さっさと姉の待つ長屋に帰ろうと足を踏み出す。だが、アキが腕を引いて止めた。
「無視は許さん」
 駄々をこねる子供のように、その場から動こうとしない。大きなため息を吐いて見せたが、それで収まる子ではない。仕方なく鬼女の出た通りへ戻ると、ひざを突いて目を合わせる。亘は眉間にしわを寄せながら口を開いた。
「お前はオレが怖くないか?」
「ない」
 間髪入れず返ってきた言葉に、亘の目が丸くなる。
「今まで共にいて、一度も?」
 聞くつもりのなかった問いを重ねれば、「ない」と同じ言葉が返ってきた。
「――そうか」
 ほっとした気持ちになって、ようやく自分が緊張していたことを悟った。
「おい、答えになっていないぞ!」
 アキはむくれた顔でそう言うが、もう答えは出たようなものだ。
「オレの身勝手な思い込みだ。忘れてくれ」
 そう言っても機嫌は直らない。そうしているうちに、どんどん日も落ちていく。
「さすがに今日はもう何も買えないぞ」
 また屋台に走り出しては適わないと釘を刺す亘に、アキは頬を膨らませた。
「ケチ」
「何をどう言おうが、変わらないものは変わらない」
 立ち上がった亘は、今度こそ帰路につこうとしたが、アキは再び袖を引っ張った。
「なら、どうしていきなり不機嫌になったのか理由を話せ」
 驚き、目を瞬かせれば「そのくらいの変化はわかる」と言われてしまった。
 ――よく見ている。
 亘の胸の内の声までは、アキも理解できない。
 亘は、幼少の頃から表情の乏しい子供だった。愛嬌がないと気味悪がられたこともある。だが、両親は「その方が魔に魅入られなくて済むからいい」と言っていた。子供は簡単に仏の元に戻ってしまう。遠く離れた集落では、男児に女装させる風習がある。ひな祭りも元をたどれば子供の健康を願った呪術的風習だ。
 大男に成長した今、両親の言っていたこともあながち間違いではなかったかもしれないとたまに思う。だが、少し表情を曇らせれば周囲に緊張が走るのは、悩みの種だ。
「まあ、機嫌が悪くなると目元がキツくなると姉さんにも言われたからな」
 亘は一人納得する。アキはそれも気にくわないのだろう。すぐに教えてくれない亘を下から睨んでいた。
「そうむくれるな」
 頭をくしゃくしゃになでれば、アキは「やめろ」と抵抗する。
「オレは羅残が嫌いなだけだ」
「お主と同じ祓い屋だからか?」
「それだけじゃない」
 その先を待つアキを一瞥し、亘は口を閉ざす。
「もったいぶるな」
 アキはそう言うが、その先はあまり口にしたくなかった。凍てつくような風が首元を通っていく。
「アキ」
 騒いでいたアキの口が、ぴたっと閉じる。
「お主、今初めて私の名を口にしたな」
 嬉しそうに笑みをほころばせるアキに、亘は言う。
「今夜、鬼女を探しにいくぞ」
 あの男に一泡吹かせることができる機会など、そう巡ってくるものではない。
 祓いの方法を知っているというのであれば、アキも連れて行った方がいいだろう。ちらりとアキを見れば、初めてそばを食ったときと同じように、目を輝かせてこちらを見ていた。
「そうこなくては!」
 アキの後ろ髪が、子犬のように飛び跳ねた。

 夜の江戸は、日中とは違う雰囲気をまとう。
 夜が商売時の吉原は、月明かりさえ飲み込んでしまいそうなほど明るく、足下もよく見える。が、それ以外の場所は基本、真っ暗だ。
 ぽつりぽつりと、明かりの灯った灯籠がある場所もあったが、数十歩離れれば顔すらよく見えない程度の淡い光だ。闇が視界の隅に必ず入る。その闇から何かがぬっと現れそうな気がして目が離せない。
「あまり気を張るな。疲れるからな」
 体が強ばっているのがわかったのか、先頭を行くアキが小声で言う。
 みつきには事情を説明して出た。姉に嘘をつくことは、亘にできない。
 落ち着かせるように、息を短く吐く。体の温もりが少し消えた気がした。空を見上げれば、流れる雲と月が目に入る。アキと会ったあの夜より明るい。
 明かりを持たず彷徨(さまよ)っていれば、不審者だと思われる可能性もある。鬼女ではなく、武士に殺されたなんて笑い話にもならない。
 人の気配が消えた四つ辻に立つと、アキは道奥の暗闇をじっくり見定めて進む方向を選ぶ。
「お前、どこに鬼女がいるのかわかるのか?」
 思わず尋ねれば、アキは首を横に振る。
「勘だ」
 顔は見えずとも、弾んだ声からアキが楽しんでいるのが伝わってくる。
「――勘、か」
 羅残の名を聞いた途端、頭に血が上って「先にこちらが解決してやる」なんて思ったが、結局徒労に終わりそうだ。
 ――所詮、オレはこんなもんだよな。
 そう思ったとき、アキが止まった。
 どうした、と開きかけた口を閉ざす。
 亘は、見た。
 ゆらり、と揺れる灯り。それは、手提げ灯籠にしては位置が高い。灯りは、右に左にと揺れ動く。ぞっと鳥肌が立った。懐に入れてある小刀に手を伸ばす。亘は腰を折るとアキの耳元で囁いた。
「オレは、ちゃんとした祓い方を知らん」
 アキはこちらを振り向いた。星明かりの下でもわかる不機嫌な顔だった。
「お主、そんなに驚かせるのが好きなのか?」
 突然耳元で囁かれれば、誰だって驚く。「すまん」と亘は短く謝った。
 灯りは、ゆっくりこちらに向かって来ている。次第に、それが蝋燭の炎だとわかってくる。それを二本、頭にくくりつけているのだ。淡く照らされた顔には、陰がくっきりと浮かぶ。
 深い皺を刻んだ老女だ。その目は陰りができ、深くくぼんでいるように見える。亘は懐の小刀を強く握った。
 鬼女だ。
 固唾を飲み込んだ音が聞こえたのか、アキは強ばる亘の腕に触れた。
「落ち着け。あれはお主を食ったりはせん」
 そう言うなり、アキはしっかりとした足取りで鬼女へと近づく。黙って見送っているわけにもいかず、亘はその後ろ姿を追った。
「また会ったな」
 また?
 アキの言葉に眉をひそめながら、亘は鬼女を見据える。
 暗闇から突然声をかけられ目を丸くしたそれは、アキと亘の姿を捉えるとほっと胸をなで下ろしたようだった。
「なんだ、あんたらか」
 年を取った老女の声。だが、大輪を支える茎のように凛とした芯が通っている。その声には聞き覚えがあった。
「驚かせるな。これで死んだらどうするのさ」
 そう言って、ほっほっほと独特の笑い声をあげた。
 その笑い声を聞いて、値踏みするようにこちらを見てきた記憶がよみがえる。
 歩き巫女か。
 全体的に白っぽい衣装は、わずかな灯りでも存在感を放つだろう。それに歩き巫女は、なぜが頭に蝋燭をくくりつけている。まるで鬼の角のように。亘の脳裏に丑の刻参りという言葉が浮かんだ。
「なぜ、お主は蝋燭を頭につけているのだ? 熱いだろう?」
 アキの純粋な問いが、老女に向かう。歩き巫女は再び独特な笑い声をあげた。口から白い吐息が揺らめく。
「熱いぞ。髪に落ちて固まるから厄介だ。でも、灯りを持っていたら両手が開かない」
「そういえばさっき、何か呟いておったな」
 アキがそう言えば、老女は亀が首を伸ばすようにアキに顔を寄せた。瞬きをせず、蛇のように開いた目で獲物を品定めするような視線を向ける。常人なら退きそうな迫力がある視線を、アキは何食わぬ顔で受け止めていた。その精神力があまり子供らしくない。
「よく音を拾う耳だね」
 そう歩き巫女が言えば「まあな」とアキは口角をあげた。
「あたしは見ての通り、特定の神社に仕えない巫女だからね。使えるものは何でも使う」
 その言葉の通り、巫女なら身につけないであろう狐の毛皮を首から下げている。
 死は、穢れという教えが多い。ましてや神に仕える巫女が身につけていいものではない。寒さしのぎなのか、儀式用なのかはわからないが、頭に二本の蝋燭をつけ、頭部のついた毛皮を肩に掛けた者を暗闇の中で見たら、それは人ならざる者と思っても仕方ないだろう。
「お主はこんなところで何をしているのだ?」
 アキの問いに老女は、ほっほっほと笑った。そして、アキから亘に視線を向け、満足そうに口角をあげると再びアキに向き直る。
「だんだんとよくない気がたまり込んでいる。だから気休め程度に清めていたんだ。まあ、本当に気休めにしかならないけどね」
「あんた、そういうのがわかるのか」
 亘は、すこし前のめりになりながら老女を見た。アキより若干背の低い老婆は、亘に視線をやると首を横に振った。
「地を歩く虫や空を飛ぶ鳥を見るようには見ぬが、肌がひりつくような感覚がある。まあ、長年の勘だろう」
 一朝一夕で身につくほど、簡単ではないらしい。亘は肩を落とす。
「それに、あたしの清めや祓いは、あたし独自のやり方だ。誰にでもできるものじゃないし、教えるつもりはない」
 亘は唾を飲み込んだ。どうやら、この歩き巫女にはお見通しだったらしい。それともどこかで亘が祓い屋だと耳に挟んだか。
 ――あれほど目立ってしまえばな。
 老女と会った直後のことを思い出す。亘はアキに視線を向けると、胸の片隅にわだかまっていた疑問を口にした。
「お前はいつ、歩き巫女に会ったんだ?」
 問いかけられたアキは、「さあ」と言う。
「あまり覚えていない。ただ、あっちの方へ行けと言われた記憶だけはある」
 どういうことなのかさっぱりわからないが、老女の笑い声が会話を遮った。
「縁とは不思議なものよ」
 そう言って笑う老女の声が、ぷつりと途絶えた。
 目線をあげれば、蝋燭の灯りに照らされた歩き巫女の二つの目が、射抜くように亘を見つめる。
 亘は、顔をしかめる。何もかも見透かされているようで、気持ちがいいものではない。淡い灯りから遠ざかろうとすれば、老女は口を開いた。
「あんた、死相が出ている」
「は?」
 思わず声を出すのと、アキが振り向いたのはほぼ同時だった。
「そう心配するな。必ず死ぬとは言っていない」
 歩き巫女はそう言うが、捉え方によっては命が助かっても大怪我を負う可能性はある。姉を残して死ぬつもりはない。
 老女は、すれ違いざまに亘の腕を叩く。
「まあ、頑張りなさいな」
 そう言って蝋燭の炎を揺らしながら、背を向ける。
「――なあ」
 呼び止めたのは、この老女に出会ったとき言われた言葉が当たったからか。思いの外、死という言葉がわだかまっているらしい。
「どうすればいい」
 老女が振り返った。たしかに闇夜の中に浮かぶ姿は、鬼女と見間違われても不思議はない。ただ、亘には死を回避するための蜘蛛の糸だ。
 だが――。
「わからん」
 歩き巫女はきっぱりと言った。
「己の心のままに動け。あたしに言えるのはそれだけだ」
 そう言って顔を背けた老女だったが、再びこちらを見ると「白(はく)蛇(じゃ)だ」と言った。
「あんたらとはまた会う気がするからな。呼び名くらいは教えてやらんと」
「なら、こちらも――」
 名乗ろうとする亘を、白(はく)蛇(じゃ)は片手をあげ止めた。
「呼び名ならともかく、名は簡単に明かすな。名は命を縛る」
 亘は押し黙った。同時に己を恥ずかしく思う。
 白蛇は、笑い声をあげながら闇に溶けていった。その姿が見えなくなるまで亘は立ち尽くす。
「なあ」
 袖を引く者はひとりしかいない。
「お主は、どうして祓い屋をしているのだ?」
 それは、知識も技術もないのにどうしてやっているのだと責めているように聞こえた。ぐっと喉を絞められた感覚を受ける。
 亘はアキの問いかけには答えず、足早に進む。
 戸惑うアキの声が背後から聞こえるが、亘は固く口を閉ざしたままだった。足早に暗い路地を行く。無論、行くあてなどなかった。ただ、今はひとりにしてほしかった。

 意地になってアキから距離を置けば、それなりに遠くまで来たことに気づいた。
 周囲が開け、木々が多い。その木の多くは桜だ。
 ――寛永寺まで来てしまったか。
 寛永寺は徳川家の菩提寺だ。その建立の際に植えられた多くの桜は、安寧の世を象徴するように、幹が太く立派な花を枝いっぱいに咲かせる。まだ枝しかない状態だが、春になれば花見客で賑わうだろう。広大な敷地には多くの建築物が建ち、世俗とは違う雰囲気に包まれている。境内に入るには門を通らなければならないが、今は閉ざされていた。
 アキの姿はない。
 亘はため息をついた。
 ――子供か、オレは。
 さっさと合流しなければと思ったそのとき、灯りがこちらに近づいてきた。二つの陰は、まっすぐこちらに近づいてくる。亘は慌てて物陰に隠れた。場合によっては切り捨てられることも十分あり得る。
 でも、アキを探しにいかないと。
 途端、物音を立ててしまった。しまったと思ったときにはもう遅い。
「誰だ!」
 男の声。このまま隠れているわけにもいかず、亘はしずしずと姿を現した。白蛇の言葉が脳裏をよぎる。本当に死ぬのだろうか。そう思っていれば、鼻で笑う音が耳を打つ。
「なんだ、鬼睨みか」
 こんなところで何をしている? という声に亘の血が引く。視線をあげれば、目の前には三十半ばくらいの色男が立っていた。亘よりは低いが、平均的な身長より若干背丈はあり、くっきりとした目鼻立ちは歌舞伎の二枚目役者のようでもある。
 亘はその声も顔もよく知っていた。
「――羅残(らざん)」
 苦虫を潰したような顔をし、男を睨む。睨まれた男は、嘲笑を浮かべた。
「相変わらず恐ろしい顔をするな、お前は。そもそもこんな時間に何をしているんだ?」
 とっさに言葉が出てこなかった。もともと話し上手な方ではない。亘が黙っていると、羅残は鼻で笑った。
「夢遊病かな?」
 亘は唇を引き結んだまま、羅残を見下ろした。羅残の笑みが僅かにひきつる。
「羅残殿」
 羅残の後ろに控えていた男が、雨音のような声で割り込んできた。
「そちらの方は?」
 歳は羅残とそう変わらないだろう。ただ、意志の強そうな目にくっきりとした眉、薄い唇に高くも低くもない鼻、そんな顔の部位がよく見えるのは、頭を剃り上げているからか。
 亘が、羅残に暴言を吐かないのもそれが原因だ。
 明らかに僧侶である。物腰やまとう雰囲気から、高名な寺院の僧侶だろう。
 羅残が「失礼しました」と頭を下げたのを見て、亘は目を丸くした。自尊心が高く、他人を鼻で笑うような男が、大人しく頭を下げるほどの相手らしい。
「こちらは元許嫁の弟で亘です」
 その紹介の仕方に、亘の目が細くなる。
 事実ではある。だが、葬り去りたい過去だ。
 僧侶は、殺気立つ亘とは対照的にゆるやかに頭を下げた。
「亘殿、ですか。初めまして。寛永寺の僧侶をしております、慈(じ)円(えん)と申します」
「寛永寺の僧――」
 思わず言葉を繰り返せば、「はい」と落ち着き払った声が返ってきた。
「我々は仏の言葉を皆様に伝え、不安を取り除くことを使命としております。ですが最近の世の中は不安定で、物騒な話が多い。人々からは不安の声があがっています。不安は、不浄となり奇怪を引き起こします。わたしは常人が目にしないものを少しだけ目にする才覚を授けられた身です。人々の不安を祓うため、町民地に詳しい羅残殿にご助力いただいているのです」
「そう、ですか」
 慈円はこくりと頷いた。その眼差しや佇まいから、嘘をつくことははばかれる。
「して、亘殿。貴殿はどちらから参ったのですか?」
 慈円の低く落ち着き払った声に、亘は一度口を閉じた。
「――神田から」
 ゆっくりとそう口にすれば、羅残が難癖を付けたさそうな視線を向けてきた。
「何でまたそんなところから来た? お前の家は日本橋付近だろうに」
 舌打ちを寸でのところで止め、亘は冷たい空気で肺を満たす。
 どうしたものか。
 羅残の前だ。本当のことは口にしたくない。沈黙を続けるわけにもいかず、かといって妙案が浮かぶわけでもない。そもそも、慈円の前で虚言を吐けるほどの度胸はなかった。
 眉間に刻まれた皺をもみほぐしているときだ。
「見つけたぞ」
 場にそぐわない明るい声が夜の闇に響く。あたりを警戒する羅残と慈円とは対照的に、亘はこめかみを押さえた。
 なんと間が悪い。
 背中を丸めた亘に向かって、子供が駆け寄る。手元の灯りだけでもよく見えたのだろう。長い後ろ髪をなびかせ、子犬のようにすり寄ってきた子供の整った顔立ちが。
 唖然としている羅残に対し、慈円は微笑を浮かべた。子供好きなのかもしれない。だが、アキはそんな二人を見て亘の背後に隠れた。いつもなら「何者だ」と問いかけていそうなところなのに、と亘は不思議に思う。
「亘、この子はなんだ? まさかこんな夜更けに逢い引きをしていたとかいうんじゃないよな」
 寛永寺の近くには不忍池がある。蓮の咲く季節になると幻想的な光景を見せてくれる名所だ。蓮は観賞だけでなく、実も食べられることから、このあたりは料理茶屋が多い。その中には、逢い引きに利用される茶屋があり、出会(であい)茶屋(ちゃや)と呼ばれていた。
「違う」
 噛みつくように言う。お前と一緒にするな、という言葉は飲み込んだ。
「では何をしている。こんな時間に若い女を連れて」
 なるほど。羅残にはアキが女に見えるらしい。もっとも、日中だったらどう思うのかわからないが。
 こうなってしまった以上、黙ってやり過ごすことは不可能だと亘は理解している。だが、やはり羅残の手前で話したくはない。
「羅残殿、一気に質問を投げかけては相手も答えにくいものです」
 慈円はそう言って羅残をなだめた。
「亘殿、その子とのご関係をうかがっても?」
 アキは、慈円が話すたび亘の着物を強く掴んだ。顔を合わせたくないのか、背中に隠れるだけでなく顔を押しつけてくる。上背のある亘の背後に隠れてしまえば、アキの姿はまったく見えない。
「訳あって我が家で預かっている、遠縁の子です」
 そう言えば、羅残が顎をあげ訝しげな視線を投げかけた。
「ならどうしてこんな時間にこんな場所にいる? お前、神田から来たって言ってたよな? そこで何をしていたんだ?」
 目を細め、口を固く閉じた亘に代わって答えたのはアキだった。
「鬼女の話を聞いて、調べに来たのだ」
「鬼女?」
 眉をひそめる羅残に、顔を出したアキが頷く。
「どうして調べる? 肝試しか?」
 亘はアキの口をふさごうと振り向いた。しかし、人の動作など音に比べれば亀の足のように遅い。
「違う。それが役目だからだ」
 今すぐ逃げ出したい衝動に亘は駆られる。だが、ここで姿をくらませても結果は同じだろう。顔の広い男だ。亘の居場所など簡単に見つけられる。
「どういうことだ?」
 険のある声は、アキではなく亘に向けられている。亘より先にアキが答えた。
「祓い屋だからだ」
「祓い屋」
 途端、げびた笑い声が闇を裂いた。慈円の肩が跳ねあがったのが見て取れる。羅残は息を吸うこともできないと言わんばかりに笑う。腹を抱え、臓器がよじれそうだと目尻に涙をためた。
「亘よ、お前まだ祓い屋ごっこをしているのか」
 くっくっくと笑う羅残を前に、亘は何も言い返せなかった。強く噛んだ下唇から血の味がした。
 羅残はすべてを知っている。みつきとの婚約は、まだ両親が生きていた頃のこと。流行病で両親と妹が死んだ途端、婚約は解消された。結局、羅残は父の持つ祓い屋としての技が知りたかっただけなのだろう。
 その後、姉弟二人で生きていくために思い出の詰まった家を手放し、長屋へ引っ越した。いつかまたあの家に住もうと姉と約束したが、今その家には新たな嫁をもらった羅残が住んでいる。
 羅残以上に稼ぎ、店を構える勢いがなければ、元の家に戻るなんて夢のまた夢。それに羅残は、流行病で家族を失ったあとに、亘が祓い屋を始めたことを知っている。同時に、無知なことも。
「なぜ笑うのだ」
 アキが不愉快そうに声をあげるが、それで人を見下すのをやめる男ではない。そのことは、亘が一番よく知っている。
「君は何も知らないのだな」
 かわいそうに、と言う羅残は亘を見た。その見下した視線にぐっと両手を握りしめた。アキの耳を塞いでしまいたいが、そういうわけにもいかない。羅残の口が罪人の首を落とす刀のように見えた。
 その口が、おもしろそうに歪む。
「この男は、祓い屋を名乗って金を受け取っていながら、江戸の守りについても知らない。素人に毛が生えた程度なんてものじゃない。もはや詐欺だ」
 羅残の声が、江戸の町全体に広がっているように感じられた。胸が、痛い。目には見えない刃でズタズタに引き裂かれたようである。
 現在の江戸は、初代徳川将軍、徳川家康が綿密な計画を立て作った都市だ。それ以前は、未開の地が占めていた土地を河川工事や埋め立てなど大規模な土木工事で整備した都市は、大都市になった今でも機能を果たしている。
 また、江戸の地は唐の長安や平安京と同じく「四(し)神(じん)相応(そうおう)」の思想を取り入れている。四神は四方を守る霊獣であり、北に玄(げん)武(ぶ)(山)、南に朱雀(すざく)(窪地)、東に青(せい)龍(りゅう)(流水)、西に白(びゃっ)虎(こ)(道)のある地をいい、江戸はそれに乗っ取って作られた。
 それだけでない。
 江戸城を中心とした際、陰陽道において忌まわしき方角とされる北東と南西は、「鬼門(きもん)」と「裏(うら)鬼門(きもん)」といい、邪気が通る道とされていた。そこで、「鬼門」と「裏鬼門」を封じるために「鬼門」の方角に寛永寺を建立し、神田明神を湯島に移したのだ。それだけでなく、浅草寺も鬼門封じの役割を与えられた。
 江戸は、町そのものが巨大でなおかつ強固な守りになっているのだ。
 亘はそのことも知らなかった。今でも、羅残に笑われた日のことを夢に見る。今もそうだ。
 ――やっぱり祓い屋なんてやめるべきか。
 どんどん背中が丸くなっていったときだ。
「それがなんだ?」
 亘は思わず顔を上げた。アキの不思議そうな視線が、まっすぐ羅残を貫く。それに当てられたのか、羅残の方が慌てふためいているのがわかった。
「君は知らないかもしれないけど、祓い屋なら常識だ。祓い屋だけじゃない。宗教の垣根なんかないくらい基本的なことを知らないんだぞ? それで祓い屋を名乗っているなんて、袈裟を来たただの坊主頭が僧侶を名乗り、金をだまし取っているのと変わらないだろう」
 羅残の言っていることはもっともだ。亘は顔をしかめながら、黙って耐えるしかできない。亘に知識がないことは事実なのだ。
 しかし、アキはそれでも小首を傾げた。
「穢れを祓い退けるのに、もっとも必要なのは常識や方法だけではない」
「じゃあ何だと言うんだね?」
 きっぱりと言い切るアキに、羅残の苛立たしげな声が食いつく。だが、アキは動じることなく答えた。
「気持ちだ」
「――きもち?」
 途端、破裂したような笑い声があがった。きっと、この声を聞いた人間は、得体の知れない笑い声を妖の類と勘違いするだろう。
「羅残殿」
「も、申し訳ない」
 慈円に諭され、羅残は涙を拭いながら声を押さえる。それでも肩は小刻みに震え、唇の端からは堪えたような笑い声が漏れた。
「なぜ笑うのだ?」
「いや、なんでもない」
 諭す気力も失せたのだろう。亘自身、羅残に気持ちはわからなくもない。心根一つで怪異や妖怪を退けられれば、人々は自分で対処でき、僧侶や神職などは不要になる。だが、そうなってはいない。つまりそういうことなのだ。
「なかなかに愉快なお嬢さんだ」
 羅残は自然な動作でアキの髪に触れようとする。しかし、アキは身をひいてその手を避けた。それが不服だったのだろう。目を細めるとにいっと口の端をあげた。
「ひとつ、いいことを教えてやろう」
 胸騒ぎがした。亘は背後にいるアキの腕をとる。びくりと身を振るわせたアキだったが、亘の手を振りほどこうとはしなかった。
「行こう」
 失礼する、と短く言葉を続けた亘はすぐさま二人に背を向け歩き出す。
 慈円の手前、あまり無礼なことはしたくなかったが、これから口にするであろう羅残の言葉を思うと、一刻も早くこの場を立ち去りたかった。
 だが、それを許す羅残ではない。
「まあ、そう急くな」
 走り出したかったが、羅残の声は風のようにまとわりついてきた。
「どうしたのだ?」
 不安げな声がすぐそばから聞こえる。ちらりと視線を送れば、まっすぐ亘を見つめる瞳があった。その瞳に映る自分は今、どんな顔をしているのだろうか。そう思ったときだ。
「お嬢さん、そいつと一緒に行動するのはやめた方がいい」
 どくん、と心臓が飛び跳ねる。アキの耳をふさごうと手を離したのと同時に羅残は言った。
「そいつは人殺しだ」


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