2024/3/23

夜は自分にとって朝だ。あたたかな暗い部屋で文章を打っていると少しだけ楽になれる気がする。この朝は偽かもしれないけれど、これは私の中では太陽のように全身を光で包んでくれる。心の芯から温めてくれるのだ。なんといってもバラバラの思考をまとめてくれる。それだけ求めて書いている。

全ての物事が正しい気がして、全てが嘘の気がした。「これはこうだ、でも、こうかもしれない」という自己の否定と肯定を繰り返して喋るようになってしまった。
私の愛すべき人たちは過去の人生経験の中ではその考えに至るのが当然かもしれない。
きっと「それは私の人生経験の中では違うなあ」が自然にできるのだ。自分はいつのまにか過去がそれほど思い出せなくなってしまったので、できなくなってしまった。これでは自己が無いではないか。おしゃべりに急停止と急発進がかかってテンポも悪くなってしまう。というか、そもそも自己というものがモトモト無かったのかもしれないが。
モチロン多分他の人は「こうかもしれない」のあとに「でも私はこう思う」と意思決定をして自分の考えを一旦定義する。いずれ変わるかもしれないが、いずれ一貫性がないと言われるかもしれないが、それは今の本当で嘘ではない言葉だ。

しかし最近の私はこの定義に失敗してしまう。この一理あるなしの思考の反復横跳びを延々にしてしまう自分に我慢がならない。自分の思考のどっちつかず感が、私が無い事を証明してしまう。人の話を聞くことは適度に自分を消すのが良いので、その場合は都合がいいのだが。

私は私の自己を主張したい。前述のとおりの「こんな考え方もある」の他に性質上「これは言うべきではない」「こんな理路整然としていないことは言うべきではない」という呪いによってすべて言葉がの整合性が足りてないものとなってしまう。
「結局何がいいたかったのだろう」と相手は思っていないかもしれないが、私は「また伝わらない事を喋ってしまったな」と諦めと苦しさを感じる。言葉は感情と経過が伝わらなければ意味がない。

以前抽象的な指示のみよこす人が私に言った「わかりにくい」が対応でわかりやすいような書き方をしようとすると、さらにわかりにくくなってしまった。

自分の中で持った知識はなんとなくつながりがあるんだけれど、それは明確な繋がりではないのだろうってこともわかっている。きっと人は地図の道順を求めているのだろう。しかし私は地図のある箇所に線を引くと五芒星ができるといった事を私は言っているんだろうなあと思った。もっと道順を話せるようになりたい。
とはいっても今まで縋っていた経験の元なっている過去は、今ではおぼろげにしか思い出せない。
わすれぬよう、おもいだせるよう、メモ帳や日記でも書いてみようか。そうしよう。少なくとも楽しかったことだけは忘れたくないもんな。

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