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「丁未の乱」について

仏教の伝来後、その受け入れを巡って蘇我氏と物部氏が争い、決着が付いたのが「丁未の乱」と日本書紀には書いてあります。
厩戸皇子こと聖徳太子14歳の時のことであり、しかも皇子自身が参戦した戦いとして記されていますから、知っている(或いは覚えている)人も多いでしょう。

蘇我氏と物部氏の対立を正史は「仏教伝来」を巡るものに矮小化(と言うといけないのかな??)していますが、おそらくは外交方針の方が大きかったかも知れません(私の推測なので戯言の範疇と考えて読んで下さい)。
丁未の乱は587年ですが、隋が中華帝国を統一するのが589年と、大陸情勢が風雲急を告げていることは渡来人からの情報があったことでしょう。
多分、仏教というのは大陸と周辺諸国間での重要なコミュニケーションツールだったでしょうから、これを利用して外交攻勢を掛けるのか、それとも海を隔てた自然な鎖国状態を維持していくのか、という大方針の対決だったのかも知れません。

ま、それはさておき・・・・・・・
6月には阿都に引き下がり、戦いの準備を始めた物部氏に対し、朝廷軍が攻め寄せるのが7月です。
この遠征軍は皇子達を擁する主力軍と別働隊(第二軍)の二手に分かれて進みます。

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上図は倉本和宏氏の著した「内戦の日本古代史」からの借用です。
主力軍は餌香川で物部軍と激突し大激戦になるのですが、ここいらへんは山岸凉子先生の「日出ずる処の天子」でも池田理代子先生の「聖徳太子」でも描写されていたと思いますが、問題は水派宮の位置です。

水派宮(みまたのみや)は敏達天皇の第一皇子・押坂彦人皇子の宮なのです。
通説では上記のように現在の広陵町ですから葛城の北部でしょうか。
敏達天皇の殯の宮があったとされ、穴穂部皇子が押し入って額田部皇女を無理矢理○そうとした場所とも近いことになります。

水派宮は戦いが起こる直前に中臣連勝海(なかとみのむらじのかつみ)が迹見赤檮(とみのいちい)に暗殺された場所でもあります。
この位置に水派宮があったのならば、中臣連が阿都へ物部氏と合流する行きがけに押坂彦人皇子を担ぐために連れ去ろうとしたため、それを嫌った押坂彦人皇子の舎人の迹見赤檮に命じて中臣連を討ち取ったというストーリーが出来ます。

押坂彦人皇子は丁未の乱に参戦していないのですが、二つに分けた朝廷軍は水派宮を南北から挟み込む形で進軍しており、水派宮には大きな圧力となったとも推定できます・・・・・・・

なんて具合に創作意欲を刺激されるのですが・・・・・・・・

果たして敏達天皇の非蘇我系嫡男が、殯の宮を築くような辺境に住むものでしょうか?
それに蘇我系の后である額田部皇女が、水派宮のそばに殯の宮を作るのを良しとするか?その殯の宮で喪を過ごすのですから。
(多分)継体天皇と欽明天皇がもたらした自分の血族に後を継がせるという継承意識ですから、額田部皇女にも無縁ではないでしょう。

で、調べていくと、近年は桜井市の粟原川と寺川の合流する辺りという説もあるそうです。
桜井市ですから用明天皇の池辺双槻の宮(いけべのなみつきのみや)とも近く、というか奈良盆地の大王の宮が集中する周辺部ですから、こちらの方が嫡男を住まわせるには自然でしょう。

こんな具合にストーリー展開というのは生まれては消え、消えては生まれを繰り返していくのですが、それはそれで楽しいものです。

あと、先ほどの展開だと物部守屋自身が阿都に引き上げる時に押坂彦人皇子を掠っていかなかった理由というのも必要になってきますから、実際には新説の方が物語としては自然な流れかも?

上記展覧会が11月開催です。それまでに今の聖徳太子関連の物語は完成できる??

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