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平安朝の話とか当時のパンデミックとか

最近は道長が最高権力を得る過程の時代を調べています。

昔、「漫画日本の歴史」(和歌森太郎監修)で読んだ記憶があるのですが(もう一度読みたいです)、道長が政権を掌握するまでは順調な道ではありません。
個人的には摂関政治の時代で、高校時代の勉強では藤原氏の権力独占に揺るぎなかったように捉えていたので意外でした。
藤原氏の中での競争は熾烈ですし、臣籍降下した源氏との競争もあり、思ったほど藤原氏が安泰とは感じないのです。

平安貴族歌詠み

まさに当時(長徳元年=西暦995年)の帝(後の一条天皇)が、次の最高権力者を誰にするかという場面があるのですが、嫁(中宮・定子)の兄(藤原伊周)を取るか、母(東三条院)が可愛がる嫁の叔父(藤原道長、実は藤原伊周の叔父でもある)を選ぶかという場面があります。
(説明すると括弧だらけになってしまう・・・・・)

平安淑女歌詠み

伊周の不人気とか、母が帝の寝所まで乗り込んで泣き落としたとか、「大鏡」には記してあります。
でも、本当のポイントは前年からの疫病の拡大(どうやら麻疹みたいなのですが)で都に死者が多数出ていたこと(公卿からも七人も!)の方が影響大きかったのではないかと推測しています。
現代の伝染病の原因が分かっていてさえ、政権の支持率と発病者数に逆相関があります(メディアにある論調=政府の対策が後手に回っていると批判は易しいですが、本当に可能な有効な手立てを人類がまだ知らないという面も多い)。ましてや当時の人間にとって伝染病はが未知の病、天罰や魑魅魍魎がもたらす災いなど、いろいろな受け止め方があり、それに対して誰のせいにするでも無く不満を溜め込んだであろう事は想像に難くありません。

前の関白であった藤原道隆(藤原伊周の父)が身内びいきをすることに対する反感があったと大鏡は語りますが、疫病の拡大や病勢が衰えない事に対する不安や恐れが、息子の伊周では状況が変わらないのではないか、と反発したとは考えられないでしょうか?

公家が身内びいきに反感って、ちょっと自己否定みたいで納得しにくいです。確かに嫉妬や羨望など、いろいろな感情があるでしょうが、身内びいきで成り立ってきた文化という面が強いですから・・・・・どうでしょう?

こうして道長に追い越されてしまった藤原伊周ですが、その後も朝廷内では道長に楯突く存在として対決へと進んでいくのですが・・・・・・

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結果的はちょっと残念な「長徳の変」へと進んでしまいます。
ただ、長い目で見ると日本の運命には必要な配剤だった気もしてくるんですから不思議ですね。
その話はまた後日。

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