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赤い屋根と黒い屋根 -第1章-⑴

第1章:赤い屋根の家

夕日が沈み始め、空が朱色に染まる頃、無月 霞(むつき かすみ)は幼稚園からの帰り道を急いでいた。
彼の小さな体は疲れ切っており、長い影が足元に伸びていた。
霞は寂しさを紛らわすために、小さな声で歌を口ずさんでいた。それは幼稚園で覚えた歌だったが、彼の声はどこか寂しげで、夕焼けに溶け込むように静かに響いていた。

「ユウヤケ こやけで ひがくれて~」

彼の前方には、赤い屋根の家が見えてくる。
夕焼けに照らされ、その屋根は一際目立ち、まるで燃え上がるように輝いていた。

霞の両親は共働きで、昭和の時代には珍しい形態だったため、霞は夕方まで幼稚園に残ることが多かった。
そのため、帰宅する頃にはいつも夕焼けが空を染め、赤い屋根の家が鮮やかに浮かび上がって見えた。
赤色は一見するとエネルギーに満ち溢れ、命の躍動を感じさせる色ではある。春の訪れを告げる花々や、秋の夕暮れに染まる空のように、温かさと希望をもたらす。
しかし、その同じ赤が、時に不穏な影を落とすこともある。血の滴る刃や、燃え上がる炎、あるいは薔薇の棘のように、痛みと恐怖を伴う色でもあるのだ。

赤い屋根の家は、まるでその両面を映し出していた。
昼間は陽の光を受けて輝き、温かな家庭の象徴となるが、夜になるとその赤は闇に飲まれ、不安と恐怖を呼び覚ます。
家の中には笑顔と涙が交錯し、愛情と憎悪が渦巻いていた。赤い屋根は、霞にとっての希望と絶望の象徴であり、心の形成に深く関与する場所だった。

霞は、幼い頃から風に吹かれれば飛んでしまいそうなほど弱かった。
彼の細く儚い体つき、透き通るような色白の肌、その弱さは、身体だけではなく心の奥底にも根を張っていた。
霞の脆さは、彼が成長するにつれても決して消えることはなく、心の深い部分に刻まれ続けるものだった。

霞の父親、無月 雅己(むつき まさみ)は、現場の日雇い労働者として働いていたが、人とのコミュニケーションが苦手で、しばしばトラブルを引き起こしていた。
その結果、職場で孤立し、苛立ちと失望を抱えたまま帰宅することが多かった。その鬱憤を酒で紛らわせ、家に帰ると暴力を振るうようになった。
しかし、彼の暴力的な振る舞いの背後には、捨てられた孤児としての孤独と愛情を知らない悲しみが潜んでいた。
雅己は自分自身の弱さを認められず、その弱さを酒と暴力で覆い隠すことでしか生きられなかった。

霞が幼稚園から帰ってくると、しばしば酔いつぶれて床に倒れている雅己の姿が目に入った。
雅己の大きないびきが家中に響き渡る。

「グゴォー、ゴォー、ギリギリ、ゴォー」

まるで家全体がその音に振動しているかのようだった。彼の怒声が響き渡り、物が壊れる音が家庭の日常となっていた。
霞は、心臓が早鐘のように打ち鳴り、冷や汗が背筋を伝うのを感じながら家に入った。彼の体は緊張で固まり、目の前の光景が全て凍りついたかのように感じられた。雅己の存在は、赤い屋根の家の暗い影となり、霞にとっては終わりの見えない恐怖そのものだった。

「ただいま…」

霞が小さな声で呟くと、すぐに母親の無月 恵理子(むつき えりこ)が笑顔で迎えに来た。

「おかえり、霞。今日は楽しかった?」

恵理子の声は、雅己を起こさないように気遣った小さな声ではあるが、温かく、優しい響きを持っていた。

「うん…」

霞は曖昧に答えながら、母の顔を見上げた。その笑顔に少しだけ安心するものの、心の奥には依然として不安が残っていた。

「お腹すいたでしょう?お母さんも今帰ってきたばかりだから、これからご飯を作るね。もう少しだけ待っててね。」

恵理子は霞の手を取り、台所へと連れて行った。霞は頷きながらも、背後に響く雅己のいびきと怒声を気にせずにはいられなかった。

恵理子は常に明るく振る舞おうと努めていたが、その明るさは母性からくるものであり、その母性は霞に向けられているだけではなく、雅己に対しても向けられていた。
恵理子もまた、幼少期に病弱で友達を作ることができず、貧困の中で孤独に生きてきた過去を持っていた。
そのため、彼女は雅己の孤独や苦しみをどこかで理解し、共感してしまう部分があった。

恵理子の母性は、息子の霞を守りたいという強い意志からくるものであったが、同時に暴力を振るう雅己に対する無意識の理解と共感も含まれていた。
彼女の明るい振る舞いは、家庭内の緊張を和らげるための努力でもあり、また自身の心の闇を覆い隠す手段でもあった。
その笑顔は、家族全体を支えるための唯一の光であり、同時に彼女自身をも支える最後の砦だった。

赤い屋根の家は、恵理子の愛情と母性、そして彼女の心の闇が詰まった場所だった。

幸せを象徴する鮮やかな赤と、恐怖と憎悪を象徴する血のような赤。その両方が混ざり合い、彼の心に強く刻まれていった。

>つづく・・・

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