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カリスマ事例:ヒトラーから考える現代社会

前回、現代に必要とされるカリスマはどんなものか、過去の事例を紐解きながら考察しますという話をしました。まずその最初の事例としてヒトラーについて詳細に語られているのが第8章です。

ヒトラーが生まれた時代背景

そもそもヒトラーが誕生した背景はどんなものだったか、から見ていきます。当時のドイツは伝統的な絆の消失に苦しんでいました。プロテスタントとカトリックの宗教上の違いで都市部と農村部は分断され、産業革命による工業化で階級対立も加わりました。不安、圧迫感、孤立感、ぞっとするよう  な無力感、実存そのものを冒していく不安。

こうした不安から逃れるため、人々は伝統的な価値を否定し、同性愛から菜食主義まで、社会主義的無神論から民族ナショナリズムまで、あらゆる多様な価値観を擁護するようになりました。あらゆる既存の価値が信じられなくなった中、唯一信じられるものとして残ったのは、集団儀礼が醸し出す交換性への共同参加だったそうです。

ヒトラーが与えてくれた一体感

ヒトラーの指導の下で集団と一体化する感覚、約束の地にいるのだという気分を支持者に与えてくれました。

群集というものは大きくなればなるほど動かされやすくなります。いろいろな階級の人間が交わるほど、個人は不定形の集団の中で溶けていきます。多様性が増えるほど個人の感覚は希薄になり、集団との一体化が強まります。自分の周りの群衆からの強制力を感じて、お互いの個性を束縛して、集団としての一体化を強めていきます。

感情の表現が禁止され、自己否定が要求されるようになると、人々は個人としての価値観を剥奪され、集団の重要性を重視するようになります。

ヒトラーは、嫌悪や敵意や侮辱を激烈に表現することによって、聞くものを興奮させ、絶頂へと導きます。

現代に漂うカリスマの予兆

当時のドイツの状況と、現代社会には似たような点がいくつもあるように感じます。多様性を尊重し、個人の感情を押し殺し、自己否定が要求される社会。そんな中、SNSでは様々な炎上事件が勃発し、嫌悪や敵意や侮辱によって人々は連帯を強めていきます。集団としての正義を振りかざすことに絶頂を感じている人たちも多いです。それを扇動するカリスマ的人物はいないものの、カリスマ集団としての要素は十分にそろっています。

もはや、どんなきっかけでカリスマが生まれてもおかしくない状況です。おそらく、小さなカリスマ集団はたくさん生まれていて、覇権争いをしているような段階だと思います。いずれ、この混沌としたインターネット界隈も統一されて、一人のカリスマに全員がなびく日が来るかもしれません。

カリスマが生まれるのは、不安や孤独が原因です。今の社会は個人主義が進み、十分な社会的なつながりがあるとはとても思えないので、これは避けようのない現実かもしれません。

カリスマの解体

カリスマ集団は、成功を収めることによって解体していきます。ヒトラーもそうでしたが、嫌悪や敵意で団結した集団は、外的脅威から身を守るための弱い立場からスタートしたからこそ成り立っています。カリスマ集団の活動が成功して仲間が増えていくと、そして外的脅威が減っていくと、だんだんその団結力が薄まってしまいます。

ヒトラーはそれを阻止するため、社会の中に残るどんな小さな自律性のかけらも取り除こうとして、あらゆる組織をナチスの網に強制的に組み込んでいったそうです。しかし、それも一時的な延命措置にすぎなかったようです。

カリスマに頼らないための社会性

カリスマに傾倒して、自己喪失することは、ものすごく幸せなことのようです。罵倒され、否定され、洗脳されて自我を失って、集団と合一化することは、この上ない絶頂をもたらしてくれるそうです。

罵倒とか洗脳って聞くと、ひどい、やばい、と思いますが、現代社会なんて暗黙のうちに人格を否定してきて、存在を無視してきて、平然と人を孤独死に追い込むので、カリスマは本当にいつでも私たちのすぐそばで手をこまねいていると考えた方がいいです。

そこに身を投じるのが悪いことだとも思いませんが、洗脳されたくないのであれば、十分な社会性を持つこと、良好な群れに所属すること、心理的安全性のある社会的健康を持つことが大事になると思います。ナチスを反面教師として、よりよい社会をつくっていきましょう。

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