日本人とカリスマ(日本辺境論より)
日本辺境論のまとめ、3回目です。たぶん最終回です。これまでの内容は以下をご参照ください。
日本人は虎の威を借りる狐
前回、日本人は常に世界に追いつくことを目標としている、と説明しました。常に自分たちの外に正解が存在して、そこを目指して頑張るのが日本人の姿です。
だから何かを主張するときも必ず先例を示して正統性を主張します。そして、こういう人は主張するだけで妥協できない、と筆者は言います。
ツイッターとかで、その主張はおかしいよ、と論理的に主張しても通じないことが多いですよね。それは相手が本当に譲れないと思っているのではなく、どこまで譲っていいのか、その本質をよく分かっていないから譲れないということのようです。
実際に差別を受けて、差別はいけない、と主張する人であれば、どこまではOKでどこからが差別かを自分の経験から語れます。しかし、他人の受け売りで差別はいけないと高らかに主張する人は、その妥協点が見分けられないから極論を振りかざすしかないわけです。
だから私たちは議論するときに、相手の経歴とかをよくよく知っておかないと徒労に終わってしまうんですね。
日本人はそんなんでいいの?
基本的に日本人はみんな、そうやって他人の主張に乗っかるタイプなので、議論できない民族です。だから雰囲気が大事だし、旗色が悪くなればコロッと手のひらを返します。
それはひどく残念に思えますが、そうやって外の知識を吸収して、強く賢く学んできたのも事実だそうです。
こうして無防備になんでも受け入れて知見を広げることが、多くの学びをもたらしています。
本来、これが正しい学びの姿だそうです。でも英米人はそんなことできません。大学のシラバスのように、これを履修することでどういう能力が得られる、ということを明示してくれないと学ぼうとしません。それでは、学びから得られる内容はほんの少しになってしまう。日本人のように、意味も分からないまま吸収しようとする姿勢こそが、真の学びなのです。
これは、アスペが苦手なことだと思います。何の意味があるんですか、とすぐ聞きたくなるのは、英米だと普通ですが、日本では正統ではない。意味がなさそうな便所掃除でもつべこべ言わずやる。無意味な儀礼もとりあえずこなして、その中から意味を見出して学んでいくのが日本式なのです。それができないからアスペと言われるんです。
これは日本の武士道にも繋がるそうです。
努力は報われる、というのは武士道に反するんですね。知りませんでした。報われるために努力するんじゃない、なんの意味もなくても努力して、その成果がひょんなことから役に立つ。そういう順序で生きているのが日本人なのです。
日本における師匠とカリスマ
以上を踏まえると、日本からカリスマが生まれないのは当然です。カリスマとは虎であり、狐にはカリスマ性などありません。それでも、日本にはたくさんの師弟関係が存在して、師匠に弟子入りして技を磨くシーンはいたるところで見られます。
それは、日本人が、どんなゴミのようなものからでも、学ぶことができる、そういう構えを持っているからです。師匠が何も教えてくれないゴミであっても、勝手にその姿から何かを学び取って成長できるんです。それは、英米人が決して真似できない、辺境人の特性なのだそうです。
だから私たちは、その特性を存分に活かした方がいいんです。狐なら狐らしく生きるんです。ツイッターにはゴミのような言論しか転がっていないかもしれませんが、そこから可食部を見出して自らの栄養にして、血肉にして、成長できるんです。そういう国民性を内在しているんです。
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