資本論 3. 貨幣の流通

資本論 第二章「交換過程」、第三章「貨幣または商品流通」をまとめて読みました。P142~212の70ページになります。第一章から第三章までが、まとめて第一篇「商品と貨幣」となっており、貨幣が世の中に流通していく様子について解説されています。

商品の売買をする人

第一章では商品について細かく考察しました。商品には「使用価値」と「交換価値」の2つがありました。ただ、いくら商品に価値があるからといって売買が始まるわけではありません。その商品を欲しいと思う「人」の存在が重要です。

とはいえ、やはり一番大事なのは商品そのもの。前回「物象化」という言葉を紹介しましたが、商品と商品の交換というものが前面に立っていて、人はただそこに意志や欲望を添えるだけです。だから、まずは人がその商品の所有者として認められる必要があります。

ただ単に物を持っているだけでは所有者にはなれません。物を持っていることを社会的に認められてはじめて所有者になれます。友達から無理やり奪ったペンや、お店から盗んだお菓子は、所有しているとはいえないのです。

金や銀が貨幣となる

前回は上着とかリンネルとかが貨幣の代わりに議論されていましたが、実際の貨幣として最も有名なのは金だと思います。この理由について筆者は以下の点を挙げています。

・純粋な量の区別が可能なこと。任意の大きさに分割したり、再び合成することができることで、交換がしやすくなります。
・生産に一定の労働時間が必要なこと。抽象的人間的労働こそが交換価値になるので、その辺に落ちている貝殻では貨幣として微妙です。採掘したり精製したり加工したり、といった工程を含んでいることは大事です。
・保管安定性があること。長期間、価値が変わらないことで、安心して使うことができます。米俵を貨幣として使った場合、虫に食われたり古くなったりして商品価値が落ちてしまうので、貯蓄に向かず不便です。

こうして、あらゆるものは金に交換するとしたら何グラム、といったレートを設定することで売買ができるようになります。

金の代わりの円

実際に我々が売買で使うのは金ではなく、円やドルなど各国で指定された通貨になります。昔のドルは兌換紙幣と呼ばれ、一定額が金と交換できると保証されていたので、ドルで値付けするのは金で値付けするのと同等だったと分かります。でも今のお金は不換紙幣なので、金との交換は保証されていません。紙幣も硬貨もその製造コストは安く、それ自体が商品価値を持っているわけではありません。こうした通貨がどうして貨幣として通用するのか、というお金のからくりを見ていきます。

商品流通

この商品流通の図を見ると、小麦の生産者は、小麦を売って貨幣を受け取り、そのお金でリンネルを買っています。リンネルを製造した織布者は、リンネルを売ったお金で聖書を買いました。おかげさまで酒好きな人は聖書を売ったお金でウイスキーを買えたことになります。

貨幣はこれらの交換をただ円滑に進めただけでなく、商品交換を「販売」と「購買」に分裂させる効果があります。本来であれば、リンネル織布者はリンネルを買いたくて聖書を売りたい人に出会わなければ売買できないのですが、貨幣を介することで、先にリンネルを売って、後から聖書を買う、ということができるようになりました。

ここで、貨幣が流通の手段としてすぐに交換されるのであれば、この貨幣自体の価値はさほど重要ではありません。だから金ではなく紙幣でもいいのです。重要なのは、国家が紙幣にお墨付きを与えること、強制通用力を与えることです。国家がお墨付きを与え、それを人々が信用するから、その紙幣は金の代わりとして、価値のあるものとして使えるようになります。

よくある幻想

さて、国家がお墨付きを与えた紙幣は金と同じように価値があるかのうように見えてくるので、国家が権力によって価値ある紙幣を生みだしているという勘違いが発生します。

しかし実際は、商品が先にあって、それを交換するために貨幣がただ介在しているだけ、という順序関係は変わりません。そのため、市場にある商品の価格総額が、流通貨幣量を規定します。商品より多くの貨幣を用意することはできないし、流通貨幣量によって商品の価格を操作することもできないのです。

貨幣を国家が大量に供給することでインフレ期待を高めて経済活動を活性化させるという「リフレ論」がかつて流行しましたが、これも完全な幻想による勘違いでしかありません。実体経済と無関係に流通貨幣量を増大させて経済を活性化させるのは不可能です。

貨幣不足と恐慌

逆に、商品総額よりも少ない流通貨幣量で取引をすることは可能です。先に示した商品流通の図では3回の取引が行われていますが、貨幣は1回分が3回使いまわされています。このように、貨幣は取引を円滑に行うためにどんどん使われている限り、特に問題は起こりません。

しかし、貨幣は「販売」と「購買」を分離したため、すぐに使わなくてもよくなりました。貯蓄できるようになったのです。人々は、商品交換のために貨幣を手に入れるのではなく、直接的交換可能性という特別な力を手に入れるために貨幣を貯めるようになります。先にも述べた通り、貨幣の量は商品総額で規定されますが、人間の「貯蓄したい」という欲求は際限がありません。

こうして、いったん商品流通の流れが途切れてしまうと、商品が売れなくなって、商品の所持者が他の商品を購買できない、と販売不能の連鎖が起こり、恐慌になります。これは、貯蓄が進みすぎて世の中で売買するのに必要なお金が足りなくなったとも言えますが、需要と供給のバランスが崩れたと考えることもできます。

恐慌が起こると、人々は貯蓄を取り出して商品に交換しようとします(主に金などの交換価値を持つ貨幣と交換しようとします)。これによって、今まで信頼によってなんとなく運用されてきた紙幣が、本当に抽象的人間的労働の凝固物として価値のあるものかどうか、今一度見直されることになります。

過剰に生産され、広告によってなんとなく必要そうな雰囲気を出して売買されていた商品は、実は不要なものだったと分かって価値が下がり、本当に必要なものを製造しようと、社会的総労働の再配分が行われます。恐慌は、こうやって商品と貨幣の関係を元に戻す力があったんですね。

まとめ

以上より、紙幣というものは単なる紙切れでしかないけれど、売買をするということは、交換価値を有する商品と商品の交換の上に成り立っているという基本を忘れてはいけない、というのが最も大事なメッセージです。

次の第四章からは、ついに貨幣の先、「資本」に進むそうです。そういえば本書のタイトルは「資本論」でしたね。まだ序章が終わっただけなのか。長いな。。。

感想

最近は、ビットコインなど、国家の保証がないタイプの仮想通貨も生まれてきました。それでも、これが技術的な保証によって信頼性を確保して通貨として成立しているのだと思います。

仮想通貨の値上がりなどは、どれだけ商品価値を見込まれているのか疑問です。投機的に、値上がりが期待され、高い直接的交換可能性を持つに違いないという無限の欲求のもとに取引されている気がします。

株価の上昇も、本来は企業の価値に応じた値段がつくべきなのに、ベンチャー投資など期待が先行した値上がりを見せるパターンは増えています。世界的に金が余っていて、それをただ増やすマネーゲームが流行っていますが、そうした商品を伴わないバブル通貨はどこかで崩壊して恐慌が起きて是正されるだろう、というのが資本論の訴えるところなのでしょう。

お金は、本来余るはずがないのです。商品総額によって流通貨幣量は規定されているので、今、商品総額を超えるマネーが市場でダブついているとしたら、それは本来あるべきマネーではないのです。ただみんなが貯蓄しているから気付かないだけで、本来の価値はインフレを起こして目減りしているはずです。

じゃあどうするのがいいのか。そういう話が次章以降に出てくるかどうかも知りませんが、楽しみに読んでみようと思います。

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