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贈与論レポート:いらないものをくれる人は贈与なのか

私は贈与論の講義を初回しか受けていないので、レポートを提出しても出席が足りてなくて単位をもらえない気がする。また、講義の内容を把握していないので、既出の話題の可能性もある。でもそんなことはどうでもいいんだ。書きたいから書く、それだけだ。

講義を受けてないのでレポートの書き方もよく分からないが、とりあえずゆーさんのPDFを参照して、体験考察型でまずは己の贈与体験を振り返る。

体験:いらないものを贈与される体験

私の母は、いろんなものをくれる。今は離れて暮らしているが、たまに遊びに行くと必ずお土産を渡される。ほぼいらないものだ。一番いらないのは海外旅行のお土産とかいう木彫りのキーホルダーやキレイな布で作られたポーチのような小物類だ。謎の民族打楽器だったり、かわいくないお守りだったり、とにかく全部ゴミだ。仕方なくもらうが、家に帰ったら時期を見て捨ててしまう。

母にも、お土産はいらない、必要ない、欲しくない、とさんざん伝えた結果、向こうも学習して、比較的マシなものをくれるように変化していった。チョコレートなどの汎用的で美味しいお菓子、ゴミ袋やトイレットペーパーなどの消耗品はもらっても困らない。最近だとマスクが最上級の贈り物として扱われている。そして、そういった良い贈り物の下の方にこっそりと謎のお土産を忍ばせる、という手法をとっている。

どうしてそんなにも物を贈りたがるのか。私たちは使わないけど捨てるにはもったいないからあなたにあげる、とよく言われるが、母が使わないものは私も使わないので、結局はゴミなのだ。もはや買ったときからゴミになる運命なのだから、本当にもったいないと思うのなら買わなければいいのだ。なのに買ってしまうから、誰かにゴミを押し付けているのだ。そういうのは辞めてほしい。

家族内の贈与は、一般的な贈与とはちょっと性質が異なる、みたいな話をちらっと聞いた気もするが、こうした贈与をしてくるのは母だけではない。近所のおばさんだ。突然、たくあんが余ってしまったから受け取って欲しいとか、庭のナスがたくさんできて食べきれないから受け取って欲しいとか、実家が農家で山ほどみかんを送ってきたけど食べきれないから受け取って欲しいとか、そういう贈与を好む年齢層がある。なぜだろうか。

考察1:いらないものを贈与したくなる心理

日本人としては、八百万の神みたいな、万物には神様が宿っているという発想が根強く残っている。ごはん粒を残せば神様に怒られるし、古くなった洋服だってまだ着れるのに捨てたら神様に怒られる。神様に怒られたくないから、捨てるのはもったいないから、誰かに使ってくれる人に贈る。まさにマオリ族のハウだ。

特に高齢者の世代であれば、みんながそうやって互いに贈り物をしていたのだろう。お互いにいらないものを贈り合えば、自分のところに必要なものがやってくるかもしれない。いらないものをもらったならまた贈ればいいし、どこか適切な人のところに届けば、少ない資源でもみんなを充足することができる。

でも、現代ではモノが余っていて、困っていない。余りものを贈ってもらったところで、こちらでも余ることの方が多い。だから、もったいないお化けなんて現代では本当にただのお化けでしかない。

考察2:いらないものを受け取りたくない心理

では、現代ではハウは消失したのか。八百万の神々は息絶えたのか。そんなことはない、現代日本でもハウは生き続けていると、既に先行事例がたくさん示されている。

そもそも、どうして私は贈られることをこんなに嫌がっているのか。贈り物をもらうことに関する物理的なデメリットとしては、家に持って帰るのが重たい、保管するのが邪魔、廃棄するのにコストがかかる、などが考えられるが、軽くて小さくて捨てやすい木彫りのキーホルダーを嫌がる理由にはならない。

やはり、物を贈られることによってハウが回ってくるのが嫌なのだろう。結局は理性的に考えて、ハウなんてなかったことにして贈られたものを捨てるわけだが、それでも精神的なコストがかかっている。

それを証明する事例がある。実家で、母が捨てるつもりで玄関に置いてあるゴミの山がある。その中に使えそうなもの(謎の知恵の輪とか)があると、私は喜んで拾い上げてもらっていく。もし、母がそれをお土産で渡してきたら、絶対にいらないと言うのに、捨てられたゴミの中から拾うのはいいらしい。それは贈り物ではないから、ハウはついていない。むしろ捨てる神あれば拾う神ありというくらいだから、私こそが神になるのだ。

それくらい物自体に意味はなく、贈る・贈られるという関係性にコストが生じている。私は、いらないものを贈られるのは嫌だと思っていたが、いるものであっても贈られるのは嫌なのだ。それくらい、贈与による呪いは忌避されるものなのだ。

課題:贈与を受けやすくするにはどうしたらいいか?

今までの流れからすると、いかに贈与を回避するか、相手に贈与させない方法を考えるのが筋の気がするが、それは相手に非があるという考え方だ。でも、本当は自分の問題かもしれない。受け取るべき贈与を受け取らないというのはマオリ族の間でも悪いことだとされている。贈与を受けないことは、己の器の小ささを示すという。

贈与を贈与と感じないようにする、感じさせないようにする、というのも、結局は贈与でなくただのゴミ拾いになってしまう。そこに呪いが介在しなければ、贈与ではない。

だから、どんな人からの呪いでも笑顔で受け取れる聖人になれば、自分の世界も広がるのではないだろうか。そこで、まずは自分が嬉しかった贈与を振り返ってみる。

体験:いらないものでも嬉しかった贈与

これまた家族の事例になるが、娘が謎の贈り物をしてくれる。紙に描いた下手くそな人間の絵(おとうさん、と書かれている)、折り紙で作った謎の物体(おはなとか、ぞうさんとか)など、ただのゴミをくれることがよくある。それでも嬉しくて、冷蔵庫に貼り付けて飾ったりする。

年齢が上がるにつれて絵もうまくなるし、造形物も精緻に作れるようになる。すごいなぁと感心する。家の中にはいろんな作品が飾られて、古くなったから交換されるものもあれば、忘れられたようにずっと飾られたままのものもある。家の中はハウであふれている。

娘からの贈り物は、だいたいなんでも嬉しい。私は呪われたいのだろうか。娘に呪われることは本望なのだろうか。娘との関係性を維持したいのだろうか。また一つ絆が深くなったと喜んでいるのだろうか。束縛されて嬉しいとかドMの発想ではないだろうか。

私はドMではない。私は呪われたいわけではないはずだ。親は、子供に呪われたいのではなく、基本的には子供を思い通りに育てたい、呪ってやりたいと思っているはずだ。だとすると、私は贈り物を受け取って呪われているのではなく、ゴミをお父さんにプレゼントしたいという娘に対して「笑顔でゴミを受け取ってあげる」という優しいお父さんを贈与しているのだ(!?)

結論:物を贈与をするとき、物もまたこちらに贈与しているのだ

人間は愚かなので、今まで目に見える物の移動しか考えていなかった。贈り物(タオンガ)に神様(ハウ)がついて移動していると思っていた。それが呪いだと考えられていた。贈り手は相手を呪うことで、将来何かしらの見返りが得られる可能性が高まるから、効果的に贈与することが強いムーブだと考えてきた。

でも、それはつまり、贈られた側から贈り手に対して、将来の見返りを贈与したことになる。あなたに将来何かいいものを返しますよ、という前売り券みたいなものを贈与している。それは贈与と意識されていないが、明らかにそういった権利の感覚がお互いの間で授受されている。つまり、贈与とは物と権利の交換なのだ。

そして、その権利を見える化したのがお金だ。でも、我々人間は、即物的に何か見返りが欲しいから贈与しているわけではない。何がもらえるか分からないワクワク感、プレゼントの包装を開けるときの高揚感、自動販売機のミステリーゾーンとかお正月の福袋のような、実はゴミしか入っていなくても期待してしまう、絶対負ける賭け事のような、そういう些細な不確実性を楽しみたいのだ。子供の成長を見守る親というのは、たぶんそういう不確実な未来への期待で子育てをしているんだ。

いらないものをくれる高齢者は、コストゼロでとりあえずガチャを回しておけば何か出てくるだろう、くらいの気持ちでいる。では、それを受け取る我々はどうすればいいか、どうすれば贈与を受けやすくなるかといえば、廃品回収業者のような気持ちで、ゴミを受け取ったと思っていればいい。我々は贈与されたのではない、廃品回収業者としてゴミ回収の贈与をしたのだ。いずれは廃棄費用が振り込まれるかもしれないし、別のお返しがもらえるかもしれない。少なくとも、我々は贈与した側なのだ。

そういう考え方を、娘に対して実行できているのだから、万人に対しても実行できるはずだ。そうすれば、贈与されることによって贈与のお返しをもらう、奢られることで感謝される、そういう新しい人類に一歩近づくことができるのだろう。

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