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「遊びと人間」1. 定義

ロジェ・カイヨワの「遊びと人間」という本を読んでいきます。この本は「遊び」について研究して、そこから文化や社会の成り立ちについて考察しようとしているんだと思います。

遊びの定義

P40に網羅的な定義が載っているので引用します。

(1) 自由な活動:すなわち、遊戯者が強制されないこと。もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。
(2) 隔離された活動:すなわち、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。
(3) 未確定の活動:すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。創意の必要があるのだから、ある種の自由が必ず遊戯者の側に残されていなくてはならない。
(4) 非生産的活動:すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。
(5) 規則のある活動:すなわち、約束ごとに従う活動。この約束ごとは通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。
(6) 虚構の活動:すなわち、日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。

全体を通して、現実世界とは違う、楽しい非日常こそが遊びだ、って感じですね。その中でも特に(5)のルールについて、筆者は重視しています。

(5) すべての遊びは規則の体系である。規則は、何が遊びであり何が遊びでないか、すなわち、許されるものと禁じられるものとを決定する。(P17)

そして、遊びは競争などを通して社会・文化に近付いていきます。

遊びは、理想的な競争が行われるよう保護され閉鎖されている社会の、抽象的諸構造、さまざまのイメージを提示し、伝播させる。(P20)
競争の遊びはスポーツに行きつき、模倣と幻想の遊びは演劇を予示している。偶然と組み合わせの遊びは、数学のいくつかの展開、確率計算や位相幾何学の源泉であった。(P23)

つまり、遊びを通して人はいろんなことを学んで、それが社会に役立っているんだろう、ということです。もちろん例外はあるけれど、筆者は遊びを体系立てて分類することで、そこから何か人間社会に役立つことを見出そうとしているのではないでしょうか。

人生リセットボタン

筆者のカイヨワさんは、遊びと仕事は違う、ということを主張しています。プロのスポーツ選手やプロゲーマーなどは、遊びではなく仕事である。彼らが遊ぶときは、本業とは別のことをするはずだ、と。

(2) 遊戯者がやめたいと思うときは、「もうやーめた」といって、立ち去る自由を持つことが何よりも必要である。(P35)
(4) 遊びは建設も生産もしないように定められている。なぜなら、その結果を御破算にするのが遊びの本質だからだ。(P27)
(6) 遊びはなるほど障害に打ち勝つ喜びの上に成り立っているが、しかしその障害とは、遊戯者の背丈に合わせて作られた恣意的な、なかば虚構の障害である。(P28)

つまり、遊びの本質とは「リセットボタン」だということだ。カイヨワさんは1913年(大正2年)生まれなのでコンピュータゲームのことは知らないから仕方ないが、わざわざ(1)~(6)まで挙げて定義してくれたものを総括すれば、リセットできるのが遊び、リセットできないのが現実であり仕事だ、と言っていると思う。

さて、カイヨワさんの時代の働き方がどんなだったのかは分からないが、少なくとも現代の仕事とは「リセットできない」ものだろうか? 物質的に豊かになって、多少失敗しても死ななくて済むセーフティーネットが充実している現代社会は、カイヨワさんのいう「遊び」と大差ないのではないだろうか?

人生に大きく失敗したって、自己破産したら村八分になって餓死するわけじゃない、ちゃんと保護してくれるし、再生を促してくれる。犯罪者だって死刑ではなく、刑務所で更生してくれて、社会に復帰させてもらえる。人生リセットボタンは、間違いなく政府が用意してくれている。

前科があると就職がしにくい、元の生活には戻れない、という意見もある。まぁそうだろう。リセットというのはそういうものだ。いくらお金を貯めて装備を整えて高ステータスを揃えても、リセットしたらなくなるんだ。セーブした時点からロードしてやり直すわけじゃないんだ。再スタートして同じ環境に戻れるわけじゃない。初期ステータス「前科」のついた新しいゲームが始まるんだ。それがリセットだから。

仕事で遊ぼう

定義(2) 隔離された活動、(6) 虚構の活動、の2つが特にゲーム環境のリセットに重要な要素だと思われる。カイヨワさんは、おそらくこの2点が仕事と遊びの違いに直結すると感じていたはずだ。

昔の人は、まだまだ五感が鋭かったと思われる。自分が見て、聞いて、触れるものが現実である、という実感が強くあったはずだ。しかし、今の我々の生活はどうだろう。

テレビやインターネットから情報を入手し、パソコンにデータを打ち込んで、SNSで仲間たちとコミュニケーションをしている。ほとんど視覚、たまに聴覚しか使っていない。私たちが行っている仕事なんて、大半が虚構であり、現実から隔離されている。既に、現実がゲーム化しつつある。だから、仕事も、人生も、リセットできる時代になったのだ。仕事も、考え方一つで「遊び」として取り組むことは可能だと思う。

先に挙げた仕事と遊びの違いは、本当に違いなのだろうか? 遊びを仕事に置き換えてみよう。

(2) 労働者がやめたいと思うときは、「もうやーめた」といって、立ち去る自由を持つことが何よりも必要である。これは転職が容易な現代社会では普通のことである。あとは「終身雇用でなければならない」という思い込みの認知さえなくせば、労働はゲーム化できる。

(4) 仕事は建設も生産もしないように定められている。なぜなら、その結果を御破算にするのが仕事の本質だからだ。これは違う気がする。なんでだろう。人生とはそもそも無意味だ、という話なのか、遊びだって実は精神的な喜びを生産しているんだよ、という話なのか。とりあえずこの点についてはカイヨワさんと意見が合わないので保留。

(6) 労働はなるほど障害に打ち勝つ喜びの上に成り立っているが、しかしその障害とは、労働者の背丈に合わせて作られた恣意的な、なかば虚構の障害である。これはフロー理論の中で考えてきた。自分の身の丈にあった課題を見出すことが重要である。これは遊びでも仕事でも変わらない。恣意的に、自分の目標を設定できるようになることが、人生を充実させるのだ。与えられた課題しかできない人は、たとえ遊びであっても、その中に十分な満足を見出せるとは限らない。

今の時代、仕事を遊びの感覚でやることもできる。むしろ、できる社会人ほど、このような遊びの感覚を仕事の中に見出しているのではないか、とすら思う。

五感を取り戻そう

逆説的に、カイヨワさんが感じていた「仕事」とはなんだったのか。「リセットできないこと」とは何だろうか?

たとえば「死」はリセットできないことの象徴だと思う。「死」は絶対的な終わりである。しかし死でさえも、輪廻転生などを考えると、リセットボタンの一つと捉える文化があることが伺える。

ここで、私が考える「リセットできないこと」とは、「自分の覚悟」ではないかと思う。これは自分がやると決めたことだから、リセットをしないと覚悟したことだから、それを仕事と感じるのではないだろうか。

覚悟があれば、命を懸けてがんばれる。命を懸ければ、火事場の馬鹿力のような、大きな力が発揮できる。だから昔の人は、仕事に命を懸けて覚悟を決めていたのだろう。

いまは命を懸けなくても価値を生み出すことはできるし、そこまで覚悟をしなくても表面的な仕事を進めることはできる。逆に、遊びに命を懸けて覚悟を決めて取り組んでいる人もいる。仕事と遊びの境界はあやふやになっている。

どちらが正しい形というわけでもない。好きにすればいいと思う。ただ、今の人は覚悟の決め方を忘れている側面があるのではないかと思う。仕事も遊びも、人生の何に対しても頑張れていない人が増えているのではないかと思う。

覚悟を決めるためには、まず自分の五感を大切にすること。SNSから得た情報を使って脳内で判断するのではなく、自分で見て、触って、感じた気持ちとしっかり向き合うこと。自分の感情を見つめなおすことで、自分は何に対して覚悟を決めて取り組みたいのか、今一度考えることが必要ではないかと思う。

そうすれば、仕事でも、遊びでも、やるべきことの解像度が上がって、より充実した取り組みができるようになると私は思う。


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