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伊予柑日記 贈与と投資

注)これは2022年2月に投稿された内容です。

20歳のマイクラ系実況者に提出させている小論文一覧。基本〆切は2日以内

■問1 あなたが10年以内に「やりたいこと」を100個列挙してください。

■問2 ゲーム実況動画は、主に学生が見ています。学生の社会環境というのは、これまでと全く異なる状況にありますし、共通する部分もあります。一般的な学生像からの差異を抽出することで、「2022年の学生が何を求めているか」考えてください。

■問3 「2032年の日本」を考えてみてください。10年後です。あなたが30歳になった社会です。いま、12歳の視聴者が22歳になった社会です。ポイントは以下のあたりかとおもいます。

・何が変わって、何が変わらないか
・世界と日本の関係性はどうなるか
→世界大戦的な意味じゃなくて、日々働く上で人々は海外とどう関わっているか
・2032年の日本で若者は何に熱中し、何が不安で、何を願っているか。

補助線としては、「今年でニコニコ15年」です。キヨが30歳になり、ananになりました。加藤純一が結婚します。ニコニコは滅びそうで、かつてのケータイ電話みたいなポジションです。ボカロは日本中に広がっていて、当たり前のカルチャーになりました。生主カルチャーはホロライブになて世界にいきました。あはたが見える2032年を教えてください。

■問4 2022年の「10歳の少年」は世界をどうみているのかを、社会階層ごとに描いてください。秋田県の農家が親の10歳、都会で私立受験する金持ちの10歳、池袋で中国人と日本人の間にうまれた10歳(他でもOK)

考えるポイント
・スマホをもっているとします。どう使っているか、なんのメディアをみているか
・友人や大人とどういう関係をもっているか
・学校とネットでどう過ごしているか
・未来をどうみているか

■問5 マインクラフトマーケットに関する予測です

1)フェースブックがメタ社になりました。インターネットはテキストと動画が開拓され尽くしたため、メタバースとよばれるインタラクションできる空間での滞在時間最大化が狙いです。このときMicrosoftはマインクラフトをもって、これにどのように動くのが最適か考えてください。考える変数は人数と滞在時間です。ビジネスは無視してください。

2)日本のマイクラ動画マーケットは年齢階層で分かれています。大きくは4つです。
a)キッズを中心としたUUUM、
b)ゆっくり界隈、
c)男性中心としたマルチプレイ界隈、
d)女性と高年齢ニコニコを中心とした企画系グループ実況界隈
マイクラマーケット全体が5年後どうなってるのか考えてください。各マーケットがそれぞれが増えるか減るのか、新しいクラスタが生まれるかを示してください。

3)実況グループ***(削除)の今後の最適戦略を考えてください。最大瞬間風速ではなく、しっかりと価値のある支持されるグループになるものとします。

解説

問1で100個回答させてる理由は、単に何が好きか知りたいだけです。単に100並べると「世界観が違う」ことがわかる。やりたいひとはやってください。

問4は、「その人が見ている社会像」を明らかにするためのものです。かなり難しい問い。彼は2日で書いてきました。「思考体力」がめちゃくちゃ問われます。考え続ける時間の長さ。書いてくれたらレビューします。(が、レビュー内容はあまり意味がないので期待しないでください。異なる立場になって考えてみることで思考の枠を拡げることが狙いなので)

このリストを埋められた者は予言者の素質がありそうですね。自己予言なので。うさんくさい自己啓発に「夢を書き出そう」とか「願えば叶う」とありますが、なんつうか「カロリー減らすと痩せる」とか「勉強すると成績があがる」と同じで、「書いてやればそりゃできる」んですよ。正しい。その時点で50%くらい叶えられる。

ただまあ、叶えるには「暇」が必要だし、別に叶える必要もないというだけです。すごく「暇」なひとはやればいいし、そうじゃないひとはやらなくていい大学生の春休みである柊さんや、ニートのひゅーごさんは「暇(健康で時間があり自由である)」なのでやればいい。他のひとはまず「暇」になるところから。

暇について

「暇」を「暇」と認識していない人は多そう。不健康な人です。健康とは「身体、群れ、認知の不快から逃れられる」状況のことを指します。「不快なまま」が不健康です。状況的に不健康にならざるをえない人もいれば、ちょっとだけあきらめると健康になれるひともいる。後者は案外いるんじゃない? っていうのがぷろおごの考え方です。

私たちは、「肩が凝っている」ことすら、気づけないんです。「最近土日も予定をいれちゃって1日やすめてないぞ」とかも気づけない。。。

くらがりチャレンジは、より、高度な不健康に気づくことができるとおもいます。たとえば自分の知り合いに「親が金持ちで死ねば相続で1億くらい入ってくる人」がいます。彼はもう、働く必要はありません。けれど、なんとなく不安なので普通に日々労働しています。理屈では「親が死ねばOK」だとわかっていても、そう簡単に不安は消えるものではない。その「不安から逃れられない」わけですね。

これはもう単に気づくだけでは無理で、くらがりチャレンジをくり返して自分の安心できる領域を広げていくしかない。安心できるようになったら、いつか、「暇だから労働すっか」になって健康になるでしょう。

やらなくてもいいことに気づくためにくらがりに挑む。単純に、「知らない海外に1年出張で暮らすとき」に、自分の家にだけ閉じこもってウーバーするよりは、ちょっとずつ「いったことがある店」を増やしていったほうが安心して生活できるはずなんです。その海外で知っている店が多いほど、挨拶した住人が多いほど、食べた地元食材が多いほど、その国が「自分のもの」になっていきます。逆に1年ウーバーしてたら心細いまま1年過ごすことになるはずです。

そういう不快の檻に閉じ込められ、気づけない人は、案外多いです。「睡眠不足に気づけない」「実家が自分を拘束していることに気づけない」「自分の作った謎ルールに気づけない」そしてなんだかよくわからないまま空回りしてしまう。「不快に気づく」には「鏡」が必要です。

暇になった人がすること

――伊予柑さんは20歳YouTuberの風水師ということになりますよね。彼らから何か贈与を受けて風水師をしているんですか?

いいえ、「贈与させていただく機会をいただいている」んです。贈与には返礼の呪いがあるので、「関係ねえなぞのおっさんの贈与は受け取りたくない」んです。あなたが美少女だったら、おっさんからネックレスを贈られたら困るように。

20歳YouTuberの所得はひょっとしたら俺よりも高いので、贈与受け取りたくないんですよ。ぷろおごもいまや「奢らせていただく」になってるじゃないですか。

褒めて、おごって、お願いするなどの、営業をしました!!!!!!!!ドブ板です!!!!あとは「誠実な関心」をむけながら話を3時間×5回きくなどしていますだいたいポケモン。HPを削って削って贈与させていただく!(ボールを投げる)

――TikTok→Twitter→note→スラムで、健康度(フロー度?)が高まるのは理解しました。ありがちな苦悩を抱えた人間が健康になり、自分の道をゆき、自分だけの苦悩に当たるからです。ただ、そうなった時にスラム民がスラムに求めるものは、(初期の)呪いの解呪から変化しますよね。自分だけの苦悩は誰にも解けないし、ある意味解く必要もないからです。スラムが提供するもの、鏡は変わりませんが求めるものがポケモンお披露目会になるんですかね。人間研究所はその会場になる予定なんですかっ?!

これに応える問いは、実はとても明確です。「暇」になった人間は何をしたらいいのか?これは、意見を一度お伺いしたいです。ゆっくりと。(スラムではこの問いに対して、「暇と退屈の倫理学」という本で一度向かい合っています。答えの一つとして読んでみてもいいかもしれません)

――「暇」になった人間は何をしたらいいのか?ですが、阿吽ラジオで見た真善美サイクルを回すこと、あるいは高速で回すことが一つの回答になるんじゃないかと思ってます。そして、それは美に対極する(対置される)自分だけの苦悩との対峙を含むと考えています。この辺りの見解を深めるためにも『暇と退屈の倫理学』を読んでみたいと思います。

贈与と投資について

――伊予柑さんが「投資」ではなく、「贈与」をしているとするには、見返りを求めないこと、が必要条件になってくると思っています。それから、「君の魂が見たい!」という誠実な関心、あとは何が必要なのでしょうか?

「暇になったら真善美を回そう」は一つの答えとしてとてもいいですね。深い苦悩というのは「その人の固有性」だと自分はおもいます。つまり、自分自身であるもの。身体、群れ、認知の苦悩の中でどうしようもなく分かち難いものは沢山あります。性別や障害、出身や家族、文化や好みなどですね。これとどう向き合うかの格闘は、キノコの生態が多様であるように、美しいものだと思います。

「贈与の必要条件」は一度軽く回答しています。ぷろおごに奢る条件があるように、贈与には資格が必要なことがある。さて、この資格とはなんでしょうか。

――伊予柑さんの課題と彼らの関係は贈与的ですが、小論文の課題を課すという儀礼的な側面もあるようにも見受けられます。2人で、形式が定まっていて、共同の想念がある。ここまでは、投資と変わりないようにも思えます。事実、自分はそう思い、質問しました。(投資の場合はリターンが共同の想念で、それは契約に近い印象です。)ただ、贈与であるために必要になるほかの条件として、以前からお話しされていた「北極星」(真善美でいう美)が関わってくると思います。共通の想念としての「北極星」です。人にはそれぞれ「北極星」があると思います。それは深い苦悩が「その人の固有性」であるのと同じように。伊予柑さんが贈与できる資格としては鏡になれること、徹子できること、伊予柑流風水がある(地形が読める)こと。そして、20歳YouTuberが北極星を探しているという条件のもと、贈与的な関係が成り立つのではないかと考えました。投資と贈与の違いとしては、北極星を見つけるまでには時間がかかる(そして投資契約期間のような期限がない)のではないでしょうか。その点が贈与的だと考えます。課題の作成の際に、相手の認知特性に合わせて作る、というのは風水らしいですね。

「亀仙人が悟空に修行を与えている」ときに、「それは、投資なのか、贈与なのか。その差は何でうまれるか」という問いですね。非常に切り口が良い問いだとおもいます。

投資は「リターンがあるもの」、贈与は「リターンがないもの」と定義している。修行には「共同の想念」というリターンを双方期待しているから投資なのではないか? という疑問がある。しかし贈与的にも見える。

今回の修行は「北極星を見つけることそのもの」がゴールで、北極星を見つけるということは確約されていません。リターンが不確定で期限がないので「贈与的なのではないか」といっている。

ここまでがいただいた意見の整理で、以下はお返事です。

まず、「リターンが不確定だから贈与的」というのはシンプルに誤りです。なぜなら、株式投資は不確定だからです! ということは、今回の関係性は「投資的」なんでしょうか・・??

まず、贈与の「リターン」について確認しましょう。贈与のリターンは「関係性」です。年賀状やお中元は「その人と関係性を維持するため」に行っている。

では今回の「修行」は関係性のために行っているのでしょうか?その側面も多いにあるのですが、それだけではなさそうです。「暇(健康・自由・時間がある)になったひとは真善美を回転させるとよい」とおっしゃいました。そして北極星(抽象的なゴールイメージで個々人が目指す未来)は「美」だとも解釈しています。

伊予柑が課している課題はすべて「鏡」であると本人がいっているため、今回の文脈では亀仙人は「暇なひとに美を見つける方法」を教えているといえます。「暇なひとに美を見つける方法を教える」のは贈与でしょうか、投資でしょうか?

亀仙人の立場からすると、「関係性を維持したい」よりも「美が見たい」というのが強そうなので、リターンを期待するという意味で「投資」と考えたほうがよさそうです。弟子の立場からすると「返礼の義務(ハウ)」を追わされている側面が強いでしょう。関係性を維持させられるので「贈与的」です。修行によるリターンは何があるのかよくわからないので、明確な期待はなさそうです。

双方ともに「暇」なので、この「美を見つける」という「くらがりチャレンジ」をしているといえます。くらがりチャレンジというのは「遊び」です。遊びの定義はカイヨワによると「自由で、隔離され、未確定の、非生産的な、ルールをもった虚構の活動」です。

ということで、「亀仙人が悟空に修行を与えている」というのは「暇なひとたちの遊び」が結論といえます。

儀礼と遊び

「儀礼的側面からみた遊びの神聖なものは何か?」という問いはとても鋭いのですが、鋭すぎて自分の不勉強がバレてしまって困っています。

まず、儀礼というの二人以上で特定フォーマットがあれば成立するので、非常に幅が広い概念です。挨拶、ラジオ体操、出社だけでなく、言語や食事などあらゆるものが儀礼と言えます。遊びは、幅広い儀礼の中の一つです。定義はすこし上にある通りです。 

カイヨワは「人間と聖なるもの」で遊びと神聖について論じてるはずなんですが、不勉強で読んでないのできちんとしたお答えができません……。そこで、スラムの言葉の範囲で議論したいと思います。

「くらがりチャレンジ」というのは遊びです。そして、『聖性の構造』で「戦慄と魅惑」が聖性の中心であり、「象徴的想像力」が神話において現れるという議論がありました。

「春休みに小論文を書く」というくらがりチャレンジには、本人にとって戦慄と魅了があることでしょう。トライするのが怖いけれど、そこに底知れない惹かれるものがあるからです。そのトライをしている最中に沸き起こる感情というのは、そのときは自覚されないものですが、なにか超越した感覚が得られるかも知れません。ただ、それだけでは神聖なものではありません。聖性は神話と儀礼によって他者に伝達され、「そこに確かに聖性があったのだ」とかくにんされることで初めて固着するからです。(卑近な例えとして、ジャンプを読んでいて妄想しているだけではまだ聖性がなくて、同人誌を書いて初めて聖性になる感じです) 

そういう意味では「苦悩スペース」もその場における本人は聖性を感じないでしょう。動画やツイートになり広がることで、徐々に実感されていくものだと思います。たにんにひろがることで「小論文」や「苦悩の相談」が単なる行為を超えて別の意味を持ったとき、象徴的想像力が働いて聖性をもつはずです。 

つまり、このスラムで小論文や苦悩が「すげぇ」という声があがるたびに、単なる遊びに聖性が生まれていくのです。

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