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C・リンドホルム「カリスマ」

本書は1990年に書かれた比較的新しい「カリスマ」に関する本です。ちくま学芸文庫から発売されたのは2021年12月10日という、まさに最新のカリスマ研究の成果がまとめられているのではないでしょうか。

今日は第1章から第3章まで読んだので、「カリスマとは何か」というところについてまとめていきたいと思います。

「カリスマ=自己喪失欲望」

カリスマ現象の最も奥深い源泉は、自己喪失の願望、すなわち初期幼児期における自他未分化の溶融状態へ回帰しようとする、人間の終生変わることのない根源的かつ普遍的な欲望にある。(P7)

そうなの? そんな欲望があるの? という気がしますが、これをエミール・デュルケームの考えから導いていました。

デュルケーム以前の理論家は、皆「個人の情念や選好」が全ての活動の根底にあると考えていました。ミルの功利主義も、ニーチェもウェーバーも、個人的欲望・自我が優先されると考えていました。しかし個々人の欲求よりも集団の道徳などの方が優先され、葛藤を生じるケースはよくあります。

デュルケームは個人を超越した共同社会こそが大前提として存在し、人間は没個人化して集団と一体になることを望んでいると考えました。

宗教の感情的本質は神や教義に関係するものではなく、自然発生的な大衆の祝祭や、それが生みだす集合感情から生じてくる。(P80)
一定程度の密度で人々が集合するとき、そこに現実に生じる群集の身体的な接触や接近が、人々をして不可避的に、孤独よりも共同感情、競争よりも協同、弱さよりも力、差異よりも類似性を感じさせるのだ。そして彼らは、自分のまわりに蝟集した群集の影響力のもと、自己の個人的アイデンティティが解体していくのを感じはじめる。(P81)
昂揚、陶酔、自己喪失といったこのような自動的な身体経験を、デュルケームは「集合的沸騰」とよび、あらゆる宗教的儀礼の原型、あらゆる形態の人間共同体の核心である、とした。(P82)

こうした欲求が根底にあるからこそ、人々はカリスマを求め、そしてカリスマに惹かれて、一体となって熱狂するわけですね。

人間は非合理的なもの

哲学者たちは、人間の行動を説明するために、合理的な理由を考えようとしますが、人間は理性的な議論よりも非合理的な、感情的な議論に説得されることも多いです。

ウェーバーは、こうした非合理的な人間をなんとか合理的に説明しようと考えました。たとえば伝統的な非合理的行動というものがあります。これは人間の情念が非合理的なのではなく、惰性と無気力によって非合理的な行動を続けているとしました。

また、カリスマという非合理的な存在を見出だしました。ウェーバーによるとカリスマにも2種類あります。

ひとつは制度カリスマ。個人的特徴とはかかわりなく、司教衣を身にまとったり、玉座に座ったりすることができる、強力な制度や個人を正当化するための力です。

もうひとつは純粋カリスマ。全ての構造の転覆、あらゆる慣習の鎖の解体をめざす、革命的かつ創造的な、新しい未来への道を切りひらくタイプのカリスマです。

純粋カリスマとは、極端な興奮を内面から喚起し外面に表現することのできる能力、ひとを他人の強い関心と非反省的な模倣の対象にすることのできる能力を意味する(P72)

合理的現代社会に残された最後の非合理

近代社会では合理的な活動が優先され、非合理的な活動は衰退し、減少しています。これは避けることのできない現実です。

合理化された諸制度は、より大きな生産力やより効率のよい経済に好意的であり、高度の技術水準をそなえた社会秩序に必要な、冷静で、計算された、手段合理的な人間関係のために、すべての自然発生的な魅力、生き生きとした感情的きずなの直接性を無慈悲に圧しつぶしていく(P74)
近代社会においては、分業の複雑化や経済的エートスの支配が、社会的結合や相互依存性の意識がますますうしなわれていくこととあいまって、人間的なへだたりのイデオロギーや役割文化の高次化を生じさせる。したがって集合的沸騰を刺激する本質的な一体感や類似性といった身体の内部から沸き起こる経験に、よりなじみにくい感情をいだかせるのである(P88)

しかし人間は、非合理的な集団的沸騰による自己喪失を望んでいます。その結果として生まれるのがカリスマです。カリスマとはヒエラルキーの頂点ではなく、むしろ集団という心地よい平等主義的なものなのです。カリスマは人々を先導する英雄ではなく、人々から先導者としての立場を背負わされた「野心を持つあやつり人形」なのです。

人々はカリスマとともに熱狂する集団的沸騰によって強烈な感情の刺激を受けて、エクスタシー的な自己喪失へと到達します。カリスマがどんな言葉を発するかは関係なく、こうして沸きおこる身体的経験が人々を突き動かしていくのです。

純粋にカリスマ的な対象を経験することは、深い感情と抵抗しがたい力をもつものとみなされている。カリスマの伝えるいかなるメッセージよりも、身体に湧きおこる経験が優先するというわけである。(P91)

感想

さっそく、想像していたカリスマとは違う話が展開されていてとても興味深かったです。確かに最近、祭りが大切だとか、祈りが大切だとか、そういう話はよく聞くので、そうした人々の奥底に眠る欲求を満たしてくれるのがカリスマなのかぁ、という発見がありました。この続きも楽しみです。

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