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①「わたしたち」の輪郭を決める文化資本の呪い~ピエール・ブルデュー「ディスタンクシオン」より

図書館で借りた「ディスタンクシオン」という分厚い本を読んでいます。ディスタンクシオンという言葉はなじみがなかったですが、「distinction」のフランス語らしい。つまり、区別する、ということ。ここでは上品な上流階級と、下品な庶民を区別する、といった感じで使われています。

まだ読み始めたばかりなので、今回は第一部「趣味判断の社会的批判 文化貴族の肩書と血統」という項目についての感想を書きます。

ブルジョアと庶民を区別する文化資本

人間は群れを作って生きるのが好きです。どこまでが仲間で、どこまでが仲間ではないか、その境界を明確にすることで、わたしたちは仲間だ、という意識を強く持つことは大切なことです。

わたしたちの輪郭を形作るものとしてよくあるのは、たとえば「同じ地域に住んでいる」「同じ学校の出身」「同じ趣味を持つ者」などいろいろあります。だいたい長く一緒にいれば仲間になる、一緒に過ごした時間の長さが一番大事なので、物理的に近い人が仲間になりやすいです。

本書で注目する境界は、そうした物理的・距離的なものではなく、裕福か、裕福ではないか、という点です。

裕福な人たちは、普段から芸術的なものに触れる機会が多くなる。ものの見方が多角的になり、庶民とは違う高尚な思想を持つことができる。

美的性向とは、日常的な差し迫った必要を和らげ、実際的な目的を括弧に入れる全般化した能力であり、実際的な機能をもたない慣習行動へむかう恒常的な傾向・適性であって、それゆえ差し迫った必要から解放された世界経験のなかでしか、形成されえないものである。言い換えれば美的性向は、世界への距離を前提としているのであり、この距離は世界のブルジョワ的経験の原理なのだ。(P97)
美的性向もまた、人々を結びつけたり切り離したりする。つまりそれは生活条件のある特定の集合に結びついた条件づけから生まれるものなので、同じような条件から生まれた人々すべてを結びつけるのだが、同時にこれらの人々を他のすべての人々から区別するのであって、それも彼らの最も本質的な点について区別するのである。(P100)

裕福だからこそ、必要に迫られて獲得した庶民の感覚とは違う、オリジナルな感性を身につけることができる。それが上品さであり、ブルジョワ的な感性であり、文化資本なのだ。

具体的な美的性向の違いの例

たとえば以下のような老婆の手の写真を見たとき、どのような反応を示すかという例が紹介されていた。

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この写真を見た貧しい階層の人々は、「このおばあさんは働きづめだったに違いない」「リュウマチにかかっているのかな」など親近感を覚え、倫理的共感を示すことが多い。

中間階級になると「かわいそうに、ずいぶん手が痛そうだ」「この写真を見るとスペイン絵画展で見た絵を思い出します」など、いろいろな言及が現れるようになる。

上流階級になると話はどんどん抽象化されていき「この両手は貧しくて不幸な老年というものを思わせます」「これはとても美しい写真だと思います。まさしく労働の象徴だ」などという考察が出てくるようになる。

このように、文化資本の違いによって感性が大きく変わってくる。好きな映画や好きな音楽などを質問しても、それぞれの階級で答えは大きく変わってくる。この違いによって、上流階級は上流階級にしか感じ取れない機微を共有することで「わたしたち」を形成するのだ。

文化資本という呪い

これは、子育ての話だ。どれくら厳しく子供をしつけるか。食事のマナー、言葉遣い、立ち居振る舞い。普段からどんなテレビ番組を見せるか、音楽を聞かせるか。それによって子供の社会的階級が決まってくる。基本的には親と同じにしかならないけど、それでも見栄をはって、より上品に見せようと親は四苦八苦する。だから子供が「うっせえわ」とか歌い出したら激怒するんだ。

でも文化資本は、そんな見せかけのコントロールでどうなるものでもない。結局親は、自分の知っている範囲のものしか与えることはできない。蛙の子は蛙。だからこそ、偽れないからこそ、このクラス分けは強烈に、厳然たる違いを見せつけてくるんだ。

文化資本の他にもう一つ、学歴資本というのがある。どれだけ勉強によって知識を習得したか、後天的に蓄積した知識の深さだ。これは個人の努力でなんとかなる。いかに貧乏な出自でも、知識をどん欲に吸収する好奇心を持っていれば、世界最先端の研究に携わることもできる。

しかし、文化資本を後天的に身につけることは難しい。三つ子の魂百まで。幼少期に植え付けられた価値観はそう簡単に変えることができない。よくも悪くも、貧しい出自の人は、世の中を卑近なレンズで観察してしまうし、豊かな出自の人は、世の中を抽象的に俯瞰的に観察してしまう。そういう呪いにかかっている。

貧富の差は確実に存在しても、それをお互いに観察することはできないのだ。そうやって人々は「区別(ディスタンクシオン)」されているのだ。

なーんてことが書いてあるような、書いてないような、気がする本書ですが。あまりにも読みにくくて全然先に進まないのに、図書館で私の後ろに予約待ちが4人もいるせいで貸し出し延長もできないし、やばいです。頑張って読まないと。


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