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「遊びと人間」遊びを出発点とする社会学のために

ロジェ・カイヨワの「遊びと人間」を一通り読み終わりました。かなり分かりやすく読みやすい本でしたね。

遊びの4分類

まず本書は「2. 分類」「6. 遊びの拡大理論」において、世の中の遊びを4つに分類しています。「アゴン:競争」「アレア:運」「ミミクリ:模擬」「イリンクス:眩暈」です。これが筆者カイヨワさんの基本的な考え方になります。

言葉だけだと分かりにくいのが「イリンクス:眩暈」だと思います。これは刺激とか快楽とか高揚感に近いものだと思います。ジェットコースターやバンジージャンプのようなものから、アルコールによる酩酊感まで含まれます。

原始の世界では模擬と眩暈が主体となっています。たとえばシャーマンや巫女が神のお告げを聞くのは、神の模擬であり、そして儀式によって得られる高揚感は眩暈です。

それに対して文明が高度化してくると、競争と運がメインになってきます。この二つはどちらもなるべく人々に平等な機会を与えようと思った結果生まれた遊びで、ルールを平等にすることで各自の実力勝負をするのが競争、実力差を排して誰にでも平等に勝つ可能性を与えるのが運です。

たとえばパチンコは運と眩暈の要素を強く持ち、麻雀は運と競争を両方持っています。これらの分類については、以下のnoteでさらに詳しく紹介されています。

このように遊びは4つに分類できるよね。そして遊びの分類は社会や文化にも適用できるんじゃないかな、というのが本書の主題です。

遊びと労働の違い

前回の私のnoteでは、「遊びとはリセットボタンがあること」という話をしました。リセットできない、最後までやると覚悟を決めて取り組むのは仕事であり、嫌になったらリセットできるのが遊びであると。そして、現代においては、ほとんどの仕事がリセット可能な遊びになっていると。

カイヨワさんは遊びと仕事を明確に分けようと頑張っていますが、たぶんカイヨワさん自身が仕事に呪われていて、仕事はちゃんとやらなきゃ、という意識がすごく強いんだと思います。そのため、

遊びと日常生活がまじりあうようなことがあれば、遊びの本質そのものが堕落し、破滅するおそれがある(P89)

と警告しています。でも、リセットできるかどうか、覚悟を決めてやるかどうかなんて意識の問題でしかないので、そんな「堕落」というほどのおおごとではないと思います。そして、カイヨワさんも、遊びは文化や社会制度と密接に関わっていると言っています。

遊びに置いて表現されることは、文化が表現することと異なってはいない。両者の原動力となるものは一致している(P119)
遊びと慣習と制度の間には、補償作用か黙契かの密接な関係が必ず存在していると私は思う(P123)

文化や制度はリセットできない日常生活の基盤ですから、カイヨワさんだって本当は分かってるんだと思います。遊びと日常生活はいつだって密接に混じりあっています。ただ労働の呪いが強すぎて、労働と遊びを明確に切り分けたいと思っちゃっただけなんです。許してあげてください。カイヨワさんも本書の最後の方で、以下のようにリセットボタンの重要性に気付いているんです。

遊びとは、人が自分の行為についての一切の懸念から解放された自由な活動である、と定義しうる(P300)

遊びと文化

さて、先にも触れたとおり、歴史を振り返れば文明の発展とともに遊びの質は変わってきました。

文明への道とは、模擬と眩暈の組み合わせの優位を少しずつ除去し、代わって競争と運を社会関係において上位に置くことである(P166)

現代社会について考えてみると、競争が非常に重要視されているのは分かります。それと比べて運というのは大事なのでしょうか。パチンコだったり宝くじだったり、確かに運の要素はいたるところに存在しますが、それは本当に文明への道に必要なのでしょうか。これが、とても大事だ、というのがカイヨワさんの主張です。

壮大な、規格外の、異常な、夢のような幸運の希望を完全に排除することが、経済的に見て本当に生産的なのかどうか(P259)
運は、非難され、はずかしめられ、有罪と見なされながらも、このようにして、最も合理的で管理の行き届いた社会において市民権を持つのである(P256)

競争が一番大事なのはわかるんですが、結局実力主義の競争って、戦う前から勝負がついてることも多いじゃないですか。弱肉強食、強い奴が勝つ、それは平等が行きつく一つの答えではあるけれど、それだけでは人間は生きていけない。だからもう一つの平等である運が、同時に必要になるのだと。

競争と運の二つの原理が、出発点における万人の平等というかけがえのない問題に対して、正反対の、しかし相補的な解決をもたらす(P184)
全体として、同じ生活水準、同程度の家柄、同程度の環境の人びとの間にしか実質的な競合はありえない(P189)

私の解釈 ~ コミュニティと運

いま、いろんなインターネットコミュニティが生まれては消えていくのを繰り返していますが、どうやったらコミュニティが長く存続できるか、というのを考えます。

だいたいSNSを見ていれば、誰も彼もが競争したがっているのは明白です。年収でマウントを取ったり、忙しさ自慢をしたり、男女平等を訴えて相手を攻撃したり、みんな忙しそうですが、とにかくRTやフォロワー数などの数字を増やすのが大好きなのは、そういう競争要素を重視しているからです。

そして、バズるには実力だけでなく運要素も大きくからんでくるせいで、みんな熱狂してしまうんです。また、フォロワーやリツイート数をお金で買うのは平等なルールに違反するとして厳しく罰して炎上するのです。これは壮大な遊びなのです。

コミュニティ内においても、人はすぐ競争したがります。より多くのいいねがもらえるように、注目を集められるように、1ゲト王を目指すために、競争を繰り返します。日本においてはコミュニティとの接触時間の長さが重要だという「タテ社会の人間関係」による分析結果もあるので、長時間入り浸っている古参がえらくなります。

こうして序列ができると、必然的に弱い人、負ける人、注目を集められない人は、そのコミュニティが面白くないと感じてしまいます。そうやって学校教育や就活・労働社会からドロップアウトしてしまう人がいっぱいいます。

学校や会社には運の要素があまりないのです。だからパチンコなどのギャンブル(運)、酒や女(眩暈)、SNS(模擬)に逃げるのです。コミュニティにも、競争だけでなく、運が必要なのです。

運の制度化

競争社会で生きる論理的な人間に、運を受け入れさせるのは難しいです。運で決める合理性がないですからね。合理性がないことこそが、運を導入する一番の目的ですからね。どうやって非合理を受け入れさせるか。

これは競争のルールに組み込むしかないです。将棋で駒をランダムに配りますと言ったら絶対に怒られますが、麻雀では牌をランダムに配ることがルール化されているからみんな従います。仲良し5人組を自由に作ってくださいと言ったらコミュ障が追いやられてしまいますが、完全ランダムに5人組を作りました、であればみんながそれに従うだけです。

RTした人の中から抽選で100万円をくばります、は夢がありますが、面白そうな企画を提案した人に100万円をくばっていた、と発覚するとそれは競争原理なのでがっかりするのです。

学校や会社のようにしっかりした競争コミュニティにおいて、運の要素を入れるのは難しいです。運に対して報酬を出すというのは合理的ではない、無駄に見えることだから。でも、どうにかして運を取り入れて、弱い人々にもささやかな夢を見るチャンスを与えることが、非常に重要なようです。

そのために重要なのは儀礼です。よく分からないけれどみんなでやるのが儀礼。そこに運を入れていこう。運は眩暈と相性がいいから、みんなで高揚して運に乗っていこう。

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