真善美について
じぶんなりにまとめてみる。
真善美とは
辞書によると「認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。人間の理想としての普遍妥当な価値」のことらしい。つまりどういうことだってばよ?
この真善美は、主語によって変わってくる。私にとっての真善美が、あなたにとっての真善美と同一とは限らない。私の認識、私の倫理、私の審美が私の真善美を形成しているのだから。
社会にとっての真善美
世の中一般には、真善美というのは、何か共通のものという意識がある。これを社会の真善美と呼ぶことにする。社会も、世の中にはたくさん存在して、たとえばアメリカの真善美と中国の真善美は全然違うと思うし、日本国内でも、小学校の真善美と大企業の真善美は全然違うと思う。
でも、わたしたちがよく思い浮かべる社会の構成単位としては「日本人」というくくりが広範で汎用的なので、ここでは、日本人の真善美、というものを考えてみたい。
例えば、「働かざる者食うべからず」ということわざがある。これは広く日本人の心の中に根付いている考え方ではないかと思う。当然、人は働くべきだ、働くことは「善」だと考えられている。日本国憲法でも労働が義務として定義されている。さらには「24時間働けますか」といった言葉にも表れているように、もはや働くことが当たり前すぎて、働かない状態が考えられない人、働くことが「真」だと考えている人もかなり多い。
「マスクをすること」はどうだろうか。昨年までなら、風邪の人はマスクをした方がいい、マスクをするべきだ、という「善」で考えられていた。しかしコロナによって、風邪でなくてもマスクはしてるのが当たり前、という「真」に置き換わった。
真善美は価値観を表しているので、場所や時代が変われば、その内容も常に変化していく。
私の真善美と社会の真善美
私たち一人一人も固有の価値観、固有の真善美を持っている。働いてお金を稼ぐことこそが生きがいだ、という人もいれば、仕事は手を抜いてサボりつつのんびり暮らすのが好きだ、という人もいる。人によって「働くこと」が真だったり善だったり美だったりする。
しかし、日本社会としては働くことが当たり前の「真」だと考える人が多い。だから本当は働きたくないと思ってる人でも、しぶしぶ働いているケースは多い。本当は働きたくないのに、働かないといけない、と、価値観がぶつかり合ったとき、ものすごいストレスを感じる。
このストレスから逃れられなくなった人を、呪われた状態、と呼ぶ。詳しくはこちらで解説されている(有料記事)。
呪われた生活を長く続けていると、そもそも自分にとっての真というものが分からなくなる。自分の認知の本質を見失って、社会の真を自分の真だと思い込もうとする。そして、生きていることがつらくて、死にたくなる。そういう人がたくさんいる。
周りを見ると、自分の認知も「働くことが真」と思っている人、すなわち、寝ても覚めても仕事のことしか考えてない、人生=仕事という人もいる。それはそれで正しい。社会にとっても自分にとっても真となる行動をしているのだから、とても正しい。
「働くことは善」だと思っている人も多い。そりゃ仕事は大変だけど、やっぱり働かざる者食うべからず、頑張って今日も働くぞ、という人。働くことが「真」の人を見て、「仕事ができる立派な人だ」と思うし、そうなれない自分はダメな人間だ、と落ち込む。義務感が強いので、働かなければという思いに飲み込まれて呪われやすい。
また、「働くことは美」だと思っている人もいる。そりゃ働いた方がいいけど、別に働かずに生活保護をもらって生きていくのも、別にいいんじゃない。まぁ好きに生きていけばいいよ。社会の認知と自分の認知は違うということを分かっている人。世の中、働いて金を稼げというオーラが強いのは知ってるけど、まぁ別に自分は出世欲とかないし、ほどほどに稼いでのんびり暮らせばいいやと思って過ごしている人。
働くことが美だと思っている人が、働くことを強制されたら、それはもう大変だ。囚人のごとく、自分の心を拘束されて、日々を虚ろに過ごすことになる。呪われ度が非常に高くなる。
この、個人の働くことに対する真善美と呪われ度の関係を図にした。
これが、個人的には、かなりしっくり来る。
解呪しよう
大切なのは、自分の真善美を思い出すこと。きちんと認知すること。自分にとって働くことが美なのであれば、それを思い出そう。誰もが働くことを「真」としているわけではなく、仕事中毒になれないことを責める必要はない。そういう自分の認知をきちんと把握して、自分の生活の時間配分を決める。それこそがワークライフバランスの実現ではないだろうか。
では、どうやって自分の認知を把握すればよいか。一人では難しい。いろんな人との対話、問いかけを通して、自分を見つめなおすのがいいだろう。占い師というのは、そういうのを専門にしているのだと思う。それくらい価値のあることなんだ。
別に占いに行けと言っているわけではない。一度、自分とはどういう人間かを客観的に誰かに見てもらおう。いろんな人に見てもらった方がいい。いろんな人のレンズを通して自分を見つめなおすことで、自分の姿がしっかり認識できるようになる。そして、自分の呪いを解いてあげる、解呪することがとても重要ではないだろうか。
補足:阿吽さんの定義
2021/5/9時点における阿吽さんの定義する真善美
阿吽さんの目指す世界とは。
補足:2022年8月4日 木曜の読書会
真:これまでの経歴
善:所属コミュニティの目線
美:身体特性・身体反応
真は変わらないように見えて、どこをピックアップするかで変えることができる。自分にとって大切な経歴がどこなのか、チョイスするポイントを変えることができる。
美は、自分で気づくのが難しい。鏡を通して認識する必要がある。
補足:2022年11月2日 伊予柑さんの解釈
真善美のカードという概念を発明したので共有します。まず、真善美というのは阿吽さんがプロファイリングで用いている概念で、それを伊予柑がアレンジしたものです
この3つはすべて「これまで自分がどうしてきたか」という軌跡を見ると判断がしやすいです。
で、この3つが「通行証」として機能することがわかりました。通行証のカードをかかげると、「ピッ!」と入れる自動ドアがあります。カードが違うと、ドアはピクリともしません。
真のカードは「スキル」なので、「免許があると車にのれる」とか「プログラムが強いと大企業に入れる」などのわかりやすい通行ルートがあります。プログラムだけは得意マンとかは、真のカードを鍛えて強くなって生き残ります。
善のカードは「実績」です。たとえば「東大生」は実績ですし、「女を100人抱いた」は特定コミュニティでは実績ですし、「10万フォロワー」も実績です。これらも通行証になります。東大カードで入れる場所や、モテ男が入れる場所があります。
そして美のカードは「欲望」なのですが、これもまた通行証になります。たとえばスラム出身(?)でウイスキーを1000種類飲んでいる人がいるのですが、「ウイスキー1000種のみてえ」という欲望カードがあると、ウイスキーマニアのコミュニティに入れます。伊予柑は「若い才能をたぶらかしてえ」という欲を持ち続けているので「面白いやついるんですよ」と紹介されたりします。
世間的には「スキル」「実績」だけが通行証だとおもわれているんですが、実は「欲望」のカードでしか入れない場所っていっぱいあるんだよ、と気がつきました。だってプログラムが強くても、女100人抱いても、ウイスキーマニアのコミュニティに入れないですよね。何者でもない20歳の人間であっても強くウイスキーを願っていたら、ピッ! と扉が開いて、そのコミュニティには入れてしまいます。
あなたは美のカード、おもちですか?
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