2月25日 日記

 今日は二次試験だったので、特に書くことも見当たらない。受けた学校に行くつもりはないし、受かってはないだろうから。志望校選びが失敗してしまった原因は複雑だし、あまりこういったところで話すべきではないと思っているので割愛する(少なくとも今はそう思っている)。反省するというか、人生上手いことばっかりでもおもしろくないなぁぐらいの気持ちで勉強をしていきたい。
 今日のおさらいはもう済んでしまったので、ちょうど昨日読み終わった村上春樹『ノルウェイの森』を振り返りたいと思う。
 僕はこの本をどうしても高校生のうちに読んでおきたかった。理由はない。ただ、読まないと後悔する、と思ったからそうした。結果、この理由のない意思は大当たりだった。僕にとって『ノルウェイの森』は僕の生涯でもっとも偉大で親しみの深い作品かもしれない。
 『ノルウェイの森』のテーマ、というか作品を通して一貫しているのは、「生と死」、「歪み」、「偶然性」の3つであると思う。
 最初のシーンは三十代後半を迎えた主人公ワタナベくんが薄れていく直子の記憶を辿るシーンから始めり、本編、いわゆる1969年以降、からはキズキの死を思い出し続ける。上巻の始めにはこんな一節が登場する。
 
  生は死の対極としてではなく、その一部として存在する

ワタナベくんの身体のなかには記憶としてキズキが存在している。(反対にキズキは誰かの記憶でしか存在していないわけだが。)直子も同様にキズキの記憶とともに生きている(直子の場合は、お姉さんも含まれる)。そんなキズキの記憶を共有しあっていた二人は東京で出会い、恋人のような関係になっていく。(これを恋人である、と断言するのは難しい。なぜなら、直子はワタナベのことを好きではなかったからだ。恋愛感情をもっていないという意味での。)それから、直子の誕生日に彼らは交わる。ここで直子は初めて感じることができた。しかし、ここから直子は精神を病むことになる。
 直子を失ったワタナベは緑という少女に出会う。直子ほど精神的な距離は近くないが、毎週遊ぶようななかになる。一方で、永沢さんとの女遊びも激しくなる。精神の揺らぎが性的欲求として放出されることを望んだのではないかと思う。
 暫くして、直子から療養所に遊びに来ないか、という誘いを受け、京都へ向かう。そこでレイ子さんと出会い、三人で二泊三日を過ごすことになった。そこにいた人たちは自分が歪んでいることを自覚したひとたちであった。ここからは僕の曲解を含む。この人たちは能動的に自覚したというよりは、受動的に自分達の「歪み」に気づいてしまったのではないか、と僕はおもった。それに苦しみ、歪んでいることを当たり前として認めることができるようにするための場所が療養所なのではないか。直子も同じく自分の歪みを知ってしまったのではないか。それが何であるかは最後まで明かされない。お姉さんとキズキの死に直面したことかもしれない。キズキとのセックスで濡れなかったせいかもしれない。キズキのことが好きなのにワタナベのときには濡れたことかもしれない。どれが原因かはわからない。この全てかもしれないし、どれでもないのかもしれない。誰もが歪みをもって生きていて、それを修正出来るか出来ないか、知ってしまうか知らないか、だけの差があるだけで、きっと世の中は歪みで満ち満ちていて、カオスなのだろう。
 結局直子は自殺する。一緒に暮らそうというワタナベを残して。ワタナベは、直子がキズキ一緒にいたかったんだ、と思っているが、どうも違うきがしてならない。今の僕にはそう映るだけだろうか。直子は歪みに耐えられなかったんじゃないか。ぼくは率直にそう思った。とは言っても、手紙を燃やしてしまったり、ワタナベ的には、直子は僕に対して恋愛感情を持っていなかった、と思っているから、キズキのほうに行ったというのも正しいのかもしれない。でも、レイ子の胸で泣いている直子はなんだったんだろうか。わからない。
 
 この小説は、ワタナベの人生のキーマンと偶然に出会う。直子にレイ子、キズキ、緑、永沢、ハツミ、突撃隊、漁師のおじさん。みんな偶然だ。なにもかもが偶然だった。

 最後は強制的に終わらせてもらう。というのも、書きながら、この作品はどうにも書いて理解をしたり伝えるものではない、と思ってしまった。

 乱雑な文章ですが、最後まで読んでくれてありがとうございます。なんでもないただの日記です。

 『ノルウェイの森』は虚無だ。深い森のようなじめじめして薄暗い人間の姿をただありありと証明した作品だ。

本を買います。