短編小説:「テトラの嫉妬」④[完]

 「わたしがハエトリグモに似ているって?それはあんまりだわ。だってあなたは泳げない。青と赤のネオンを輝かすこともできない。社長から『癒される!』ってほめられないでしょう。それにグロテスクだわ」 
 ハエトリグモは穏やかに反論した。 
 「そちらこそあんまりです。確かにぼくは泳げません。体にネオンはありません。社長からほめられることもありません。じゃ逆に聞きます。薫さんは獲物をめがけてジャンプできますか。天井を自由に動けますか。人間に害となる悪い虫を食べてあげられますか」 
 ネオンテトラが泳ぎ回れるのは水槽の中だけ。それに対してハエトリグモは自分の意志でどこへでも行ける。生きる世界の広狭は明らかである。ネオンテトラは癒し効果を社長にもたらす。それに対してハエトリグモは害虫を駆除することで社長の安全を守る。存在の有益性の大小は明らかである。 
自分と他者を比較することのなかった薫は、打ちのめされた気持ちになった。 
 ハエトリグモはすまなそうな顔をした。 
 「薫さん。傷つけるつもりはないんだ。ぼくらは同じ個人主義者だよね。だから他者との比較をしてこなかった。いったん比較しだすと、自分は勝っているとか劣っているとか、それに囚われる。バカだよね。自分は自分なのに。自分を肯定できなくなる」 
 薫は思い切ってメダカについて質問してみた。 
 「集団主義のメダカたちは、自分と他者を比較しないのかしら。比較して他者をうらやんだり、自分を肯定できなくなったりすることはないのかしら。どうなの?」 
 う~んと言って、ハエトリグモは黙り込んでしまった。 
 二匹のやりとりを聞いていた観葉植物のベンジャミンが口をはさんだ。細い幹の先に明るい緑の葉っぱをたくさん茂らせている。  
「薫さんはメダカたちといつも一緒に泳いでいるから、わたしたちより詳しいはずよ。 群れて泳いで合唱をしているかぎりは、他者との比較はしないでしょうね」 
 そう言われて薫は口を開いた。 
「テノールもいればバスもいる。ソプラノもいればアルトもいる。みんな自分の役割に徹している。誰もが楽しそうに見える。不平不満はない」 
皮肉を言わせてもらうわとベンジャミンは言った。「集団に埋没しているから周りが見えないだけとも言えるわよ」 
 薫とハエトリグモはハッとした。他者と比較することがないから、うらやましいとか他者に認めてもらいたいとかいう気持ちがメダカには起きないのである。それは心がないということと同じだと薫は理解した。 
 それ以来、薫が編集中の頻出テトラ単語集には「心」と「嫉妬」が一ページ目に出てくる。
                            (おしまい) 

[編注]本稿は短編集に収めて出版する予定です

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