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石ちゃんだったらどうなっていたのか―「オリンピッグ」騒動で思うこと

くだんの騒動は論点がいくつかあると思うが、ここでは「ひとの身体的特徴を侮蔑的に扱う」ことについて書きたい。

渡辺直美さんの公式youtubeでは、彼女の語りに胸を打たれたり、共感したり、勇気づけられたりしたといったコメントであふれていた。私も胸が熱くなった。

ひとの身体的特徴をバカにすることはタブーである。いや、駄洒落ではなく。

そして、そんなことは誰でも知っている。

にもかかわらず、私たちは気づけば「あのハゲ」だの「チビ」だの平気で毒づくし、あるいはそれを話題にして、みんなで笑ったりする。だれかを「ブタ」と罵ったり、罵られたりするひともいることだろう。

ちなみに(わりとよく知られたことだが)ブタの体脂肪率は14~18%程度だそうだ。じつはブタさんはアスリートのような身体の持ち主なのである。よって、スリムで筋肉質なひとにこそ、こう言って差し上げるべきなのだ。「ブタみたいな身体ですね」と。

傷つけられていたのは何だったのか

閑話休題。

体型をバカにされてつらい思いをしてきた、と語るひとは、それでは他者の容姿をそのようにみなしたことはなかっただろうか。太ってたりハゲてたりするお笑い芸人がそれでいじられて笑いをとるさまをみて、その都度「ひどい」と思って生きてきたのだろうか。

私もかつて身体的コンプレックスがあり、少年時代それでずいぶんバカにされてきたし、罰当たりなことに親を恨んだことさえあった。それでもテレビで「デブ」や「ハゲ」がからかわれるさまを、ゲラゲラ笑っていた。

「これはあくまでテレビであって、本当はバカにしてはいけません」なんていうのは詭弁だ。だれかが身体的特徴を揶揄されるさまを笑うのであれば、本質的にその笑いにフィクション・ノンフィクションの区別はない。番組のなかでは演技でも、そこで起きているお茶の間の笑いはリアルだ。

「演技だから本人は傷ついてない。これは別の話だ」というのもおかしい。本人が傷ついていようがいまいが、「身体的特徴をバカにされているひと」をみて笑わせようとしてることに変わりはない。このとき傷つけられているのは、本人ではなく「デブ」とか「ハゲ」とか「チビ」とかいった、身体的特徴を示すカテゴリーなのだ。

そして「差別」とは、カテゴリーへの攻撃にほかならない。

「これだから女は」「ゆとり世代は」「〇〇市の出身者は」「〇〇人は」etc.etc.. すべてこれらは、特定のカテゴリーを蔑視したものである。

「蔑視」と「忌避」に違いはあるのか

そしてこの騒動の本質的なところとして、もうひとつには「女性」というカテゴリーがからんでいるという点があると思う。記事のタイトルでもあげたように、これがホンジャマカの石ちゃんだったらどうなっていたのか。内山君だったら?クロちゃんだったら?オリンピックという「聖なる祭典」にふさわしいかどかという論点はおいといて、まず間違いなく誰も相手にしなかっただろう。

以前の森氏の「女性蔑視発言」騒動の際も、こんなことがあった。情報番組の中で、コメンテーターとして臨席していた女性が「うちはダンナをしつけているので大丈夫です」とかなんとか発言し、スタジオに軽い笑いが起こったのである。

私は笑えなかった。

だって、男性コメンテーターが「うちはヨメをしつけているので」なんて発言しようものなら大変なことだろうに。夕方には局のお偉いさんが地面に亀裂が入る勢いで土下座せねばなるまい。

男女平等というが、「女性性を傷つけてはいけない(男性性は傷つけてもまぁOK)」という非対称性がそこにはある。そしてそれは結局、「女性蔑視」の裏返しなのではないか。

「正しい声」はどこに届いているのか

「ひとの身体的特徴をバカにするのはよくない」

この騒動でそんな声がガンガンあがっている。でもとなりでは、「臭い口ふさげや」「丸々と肉付いたその顔面にバツ」なんて歌がゴキゲンなテンポで流れている。

勘違いしてほしくないのだが、だからこの歌も規制しろ、と言いたいわけではない。(もっといえば、ようやく久しぶりに若い世代から上の世代に対して「うっせえ!」とかます歌が流行りだして、私はほっとしている)

この騒動のなか、「ひとの身体的特徴をバカにするのはよくない」という、きわめて正しいことを声高らかに、だけども単調に繰り返すひとに聞きたいのだ。

「私たちの生活のなかで、ひとの身体的特徴を笑ったり罵ったりすることがどれだけ根深いことか、自覚的ですか?」

「それが石ちゃんでも怒ってましたか?そうでなければ女性蔑視の裏返しでしかありませんよ?」

ということを言いたいのだ。

だって、石ちゃんや伊集院さんにブタのかっこさせても、笑いこそすれ、ほとんどのひとは怒らないでしょう?どっちにしろ面白くないけど。

「男はまあいいじゃん、でも女性に対してはマズいよ」と思うのなら、その思考はシンキロウさんとたいして変わらないはずだ。

「こういうことは、昔は当たり前とされてきたけど、やっぱりおかしいんです」。差別という問題に対して、こういう考え方を世の中がきちんともてるようになったのは、確実に良いことだと思う。渡辺さんはそれを「アップデート」といった。なるほど、そうだ。

だが、「これはおかしいんです」という「正しい声」と、日々私たちが日常のなかで行っているアタリマエのあいだには、まだまだ大きな垣根がある。この時代が手に入れた「正しい声」は社会の財産だ。だが、それでは私たちのアタリマエをどうするか。正直、私には皆目見当がつかないでいる。






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