自分を守るための手段は



こんにちは。


noteを書きたいのに落ち着いてまとまった時間が全く取れない。少し書いては保存、を繰り返しており、毎回書くたびに文章を見直しているので時間が無駄にかかっている。


前回ちらっと、昔より周りに敏感になっている、という話をした。

今回はそれについて語ろうと思う。

自分はいつも、面接のときに聞かれる「長所はなんですか」という質問には、「困っている人がいたら必ず手を貸してしまいます」というふうに答えることが多い。

しかし、もちろん全てに対して行動に移すわけではない。
時と場合と人を、しっかり選んでいる。

そしてそれは、他人のためではなく全て自分のためである。



周りの環境に敏感なので、慣れた環境下では今何をすべきかなのかが分からないことはほとんどない。

他人が困っていそうな様子も容易く読み取れるので、すぐに「どうした?」「どうしました?」などと飛びつく。飛びついた瞬間に解決する場合もあり、昔は恥ずかしい気持ちになることもあったが、その場合は「よかったです」などと言って立ち去ればいいのを身に着けたので、恥ずかしさは無くなった。

この行動は、純粋な『助けてあげたい』という気持ちではなく、上の人に質問しに行き、例えば「さっき言ったよね?」などと言われたり、すぐに上の人に質問できない性格の人が、自分で解決しようとして面倒なことになってから上の人に言いに行く人がたまにいるので、私がわかることであれば私が解決させたほうが自分の心にいいので、そうしてしまうだけなのだ。

誰かが怒られていたり、嫌な気持ちになっている様子を見るのは極力避けたい。
もちろん私もわからなかった場合は、一緒に上の人に聞き行くし、私が突っ込む立場ではない環境下では、上の人に「あの人が困っていそう」と言う。

このように、私が困っている人を見過ごせないのは優しい性格だからだと思っていたが、実はそうではなく、周りに敏感であるが故に、心の変化やストレスをなるべく避けようとするための行動なんだと気づいたのは、本当につい最近だ。


なので、今まで自分は優しい人間なんだと勘違いして生きていたということになる。これは恥ずかしい。

しかしそれなら、なおさら自分は他人に心がける必要があるのだと思う。
それが自分を守るための行動ならば、おせっかいだろうとお人好しだろうと、そんなのは全く関係ない。

『優しいね』や『世話好きだね』など言われたときに、わざわざ理由づけとして『自分のためなので』とは言うことはないが、そう思って生きていくことで生きやすくなることを発見した。


今まで恥ずかしさで行動できなかったぶん、これからはもっと積極的に行動していきたいと思う。




ごまだんご


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