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28.がん宣告

母が亡くなって、23年になります。

亡くなってしばらくは、実家に帰ると母が迎えてくれるような気がしましたし、電話がかかると、母からのような気がしていました。
でも、20年を過ぎた頃から、母とどんなことを話したか、どんな風に笑って、怒って、泣いていたかが、どんどん記憶から消えはじめました。

仕事をしていく中で、沢山の人と出会い、沢山のことを教えてもらっていますが、母から教えられたことも 沢山ありました。
一人の女性として、母は、仕事に取り組む姿勢も、生き方についても、最も尊敬する人だと思っています。
この手記を書こうと決めたとき、どうしても避けて通れないのが母のことです。でも、母が亡くなってしばらくは、とても書く気にはなれませんでした。
7回忌を迎えた頃から、辛かった出来事も、笑顔で話せるようになれました。一生忘れたくない、母が闘病する姿、そこから私が学んだことを 記録に残しておこうと思います。

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母がガン宣告を受けたのは、1990年の春でした。
切迫流産の危機を乗り越えて体調も安定した頃、私はそのことを聞かされました。

もっと早くから兆候はあったのだと思います。しかし、人一倍気を遣う母のことですから、わたしの体調が安定するまで、隠していたのだと思います。

「もしかしたらね、ガンかもしれない。直腸にポリープがあるらしいんよ。悪いものだったら、手術で取り除かないといけないんよ。せっかく けいこが赤ちゃんを産むっていうおめでたいときに、申し訳ないんだけど・・・」

最初に聞かされたときは、ピンとこなかったのです。

“悪いものを取り除けば、大丈夫なんだろうな。今まで、商売をしてたから、初めて入院することになるんだな”
という程度にしか思っていなくて、電話の向こうで一生懸命説明している母の話を、軽く聞き流していました。しかし、

「お母さん、直腸ガンの疑いがあるんじゃないか?ガンの部位によったら、切除して、ストマー(人工肛門)にしないと、危ないぞ!」

当時はまだ大阪に住んでいて、病院向けの薬品の卸会社に勤めていた夫に話をしたとき、夫はその話に驚いて、私にそう説明してくれたのです。

「お母さんは、おまえのことを心配して、『ガン』っていう言葉を使わなかったんだろうと思うよ。でも、ただのポリープだったら、そんなに何度も何度も検査はしないんだよ。酷なようだけど、覚悟はしておいたほうがいい」

病名を聞かされたことはショックでした。でも、遠く離れているのをいいことに、母の変調にも気づかず、自分のことばかり優先して考えていた自分の身勝手さに腹が立ちました。

でも、すぐには広島に帰ることはできません。7月末まで仕事を続けようと思っていましたし、流産の危機を脱したといっても、広島と大阪を何度も往復するのは危険でした。

「けいこは気にしなくていいからね。手術をするとなったら手術するし、近くにゆうこ(妹)も住んでるから、ほとんどのことは、あの子がやってくれるから大丈夫。あなたは、今、自分の身体のことだけを心配していなさい」

ニコニコしながら話している母の声を聞きながら、“こんなときに、無理やり元気そうに振る舞わないでよ!些細な病気でも、すごくビクビクして寝込んだらとことん寝込むような人なのに・・・”と、思っていました。でも、私が取り乱してオロオロしたら、余計母を動揺させることになります。

それから、ほとんど毎日のように、電話をかけて、病状や手術の準備の様子を聞き、母のことを励ましたり、近況を伝えたりしました。そして、電話を切り終えると、決まって涙が出てきました。

「ねぇ、マーちゃん(夫)に、頼みたいことがあるんだけど、代わってくれる?」

いつものように、電話で話していると、突然母が夫に代わって欲しいと言い出しました。

「はい。はい。大丈夫ですよ。病院から購入するより価格的にも安いと思いますし、説明を聞かれて、カタログを貰われたら、いつでも声かけてください」

医薬品のことで、何か具体的なやり取りをしている様子でした。何のことだろうかと不審に思いながら、傍で聞いていました。

「お母さん、何を頼んでたの?」

「うーん。ストマの用具のこと。これからずっとお世話になるものだから、少しでも安く購入できるんだったら、お願いしたいって・・・・」

「え?ストマになっちゃうの?そんな!」

混乱して取り乱した私は、また母のところに電話をかけました。

「ねえ、お母さん。ストマにはしないで。部分切除できるだけだったら、ストマなんかにしないでおこうよ。ずっとその後、大変なんだよ。 お願いだからストマーにすることは考え直してよ」泣きそうになりながら 私は母にそう訴えました。

あのとき、なんて自分勝手で無茶なことを言ってしまったかと後悔しています。
母は母なりに苦しんで、いろいろと先のことを考えてた末に、病気と正面きって向き合おうと思って決めたことだったのに・・・。

「いろいろ考えたんじゃけどね。これが一番いい方法だと思ったんよ。切って治るものだったら、全部切り取ってしまって治りたい。けいこがこれから子どもを産むわけだし、ゆうこだって次期に、子どが出来るわけでしょ?元気でいなきゃ、あんたたち二人が困るでしょ?
それにね、今まで出血して苦しい思いしてたけど、考えてみたら、ストマーにすることで、そういう出血とか痛みとかなくなるわけじゃない。私にとったら、こんな嬉しいことはないんよ。
昔に比べたら、手入れの仕方も装具も、すごく進歩してるみたいだし、私は抵抗ないんよ。大丈夫よ。だから、もう決めたから、お母さんの思うようにさせてね」

その時点では母にとって、手術をすることは、生き続けるためのプロセスにすぎなかったんだろうと思います。その決断に至るまでに、人には言えない苦しみや、痛みや、悲しさを 全部一人で背負っていたに違いありません。でも、それを乗り越えたからこそ、穏やかに、楽しそうに話せたのだと思っています。

そして、1990年7月。母は直腸ガンの手術を受けました。

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