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ダニエル・C・デネット『心はどこにあるのか』


ダニエル・C・デネット
アメリカ合衆国の哲学者、認知科学者。無神論者。

機能主義:物の本質、物自体などは認識不可能で、現象や属性だけが認識できるという不可知論的見地に立つ。文化人類学的には、社会の慣習、例年の行事、制度、文化の各要素は相互に支持しあいながら一つの統合体=社会を形成するという考え方。
特徴として:
①フィールドワークに基づいている
②対象の文化や社会の文脈に媒介された解釈をすること

機能主義の見地から

P123:心のすることは情報処理である。
→ 機械的唯物論 = 生命現象や意識の問題を科学的見地から捉え、物質的自然界と同質に扱うこと。心の問題を力学的概念で扱おうとする。 とは違う
機械的唯物論 → 人工知能に心、意識が宿ると考える。サーモスタッドにも意識があると考えている人々。

しかし、機能主義も心の問題を単純化しすぎる傾向がある。
・心は身体の制御システム
・神経系とは情報のネットワークだと考える=変換(入力)節や作動(出力)節で肉体と連結しているから。
→その変換器はあるメディアから情報(血中の酸素濃度の変化、周囲の明るさの減少、温度の上昇など)を得て、別のメディアに翻訳する装置である、と。

→要するに、体内の神経システムにおいても、脳のシステムにおいても、情報伝達経路の外の出来事を解明することができれば、理論的にすっきりする。

P127:二重変換の神話


神経システムは、光や音、温度などを神経の信号に変換する。
このインパルスは、中枢部分で他のメディアに変換される=これが意識のメディア
ということを考えたのが、デカルトであるが、現在では刺激反応という解釈がされている。

P128:
意識の中身はたんなる神経インパルスでなく、主体となる受け手が中心に存在することにより、全ての情報を取り込んでいると評価するべきでは?
→さもなければ、神経システムは電話通信システムか、視聴者のいないテレビネットワークと同じである
ネットワークそのものが複雑な構造をしている、変化する力を有している、ネットワークは内的な主人の役割を担い、意識にすみかを提供しているのだとする考え方はどうか?
唯物論者にとってこの考え方は後の頼みの綱となるはずだ。
→この考えを有しているおくと、神経システムがたんなる情報処理システムであるという理論が破綻しても、まだ研究を辞めずにすむ。


「私自身はそれ自身の心を持っている」


神経系における情報伝達メディアは、長い神経細胞の枝を伝わる電子科学的なパルスであり、ケーブルを光の速さでかけぬける電子とは違って、ゆっくり伝わる連鎖反応。

神経制御システム
神経細胞間の交渉は原則的に、分子から化学物質に置き換えられる。
=錠前と合うかどうか
→刺激メッセージが届くことでおこる効果。これが条件。

しかし、メッセージを身体全体に送らなくてはいけないため、鍵を取り替えられないことがある。膨大な情報処理、膨大な蓄積情報が、特定の物質にたまっていく。
→これが心をつくる物質が問題になる理由の一つ。
つまり、①伝達のスピード②神経系全体に変換器や作動体が偏在していること。

中間結論①


心のメカニズムは、もともと存在していた身体に適合する物質でできていなければならないという仮定が妥当。
神経システムは独立していない:実は船の制御システムとは違うもの。メディアに依存しない独立した制御システムではない。
→全ての接合点で「作用し」、「変換する」という事実を知ると、各部分についてもっと複雑な現実的な考え方をせざるをえない。

これまでの哲学者の課題設定
記憶だけを残してメディア=脳や神経を入れ替えれば、(情報が完全に保存できるという前提で)テレポーテーションも可能。
=人の記憶をダウンロードできたり、意識の移動が可能かもしれない
→しかし、その場合、神経系だけでなく身体全体の情報を送らなくてはいけないだろう

身体からは自分は引きはがせない
身体には自分の大部分が含まれている。意義、才能、記憶、気質、自分を形作っているものの多くが神経系に含まれているのと同様、身体にもたくさんつまっている。

デカルトが残した二元論は学問の世界を飛び越して、日常世界にまで及んでいる。
「この選手は、心身共に準備がととのっている」
「身体はどこも悪くない。問題は心だ」
心=脳を独立した臓器だと思っており、支配権があると考えている

→逆に、脳を主人とみなすのではなく、身体のために働くものだと考えないかぎり、脳の機能を正しく理解することはできない

中間結論②
心は脳にはない、同一のものという考え方を捨てること
・心の損じあを身体の他の部分にも広げて考えるようにする
これは見返りが大きく、船などの人工物と違って、私たちの制御システムは独立していないため、「わたしたち」は知恵を身体の内部に宿し、日々の意思決定に利用することができる

ニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」
「肉体の軽蔑者」:「自分は肉体であり、魂である」子供はそのように言う。子供と同じように言っていけないことがあるか?

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