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アートの基礎

身体感覚を拓こう

アートの基礎を身体に求めたときに気づくことは、五感という器官のみならず身体全体で感じる力のことです。 一般に五官は、目-耳-鼻-舌-皮膚の感覚器官をさし、その作用の五感を視覚-聴覚-臭覚-味覚-触覚と言われています。 東洋では自然としての身体観から六根という 眼-耳-鼻-舌-身-意 という六つの根元を言います。 「意」は、氣(い)という息に通じます。「意」は、五官と絶えず感応しながら気持ちや心の動きといった意識として、いわゆる頭の働きにもたらされます。
それでは「意」は頭の働きかというと、それだけでもありません。「意」の場所、心や気持ちの場所は、胸、心臓、肝、腹といった身体のなにがしかの軸や中心にあたるところを思います。また「身」は、皮膚のみならず筋肉や骨、内臓の働きをも含みます。 心身、身心というようにこの「身」もまた、意と連動して身体があるということを気づかせてくれます。
身体感覚を拓くことは、外界と絶えず感応しあう六根の働きの拡がりと深さといえそうです。 発生的にみると胎児の段階で耳が、働き始めます。お母さんの声を聴き、外界の音の刺激に反応します。 オギャーって産まれてくると、鼻が通り口腔が働き始めます。息が声という発語が、同時に、お母さんのミルクの匂いや、味がわかり舌での働きも活発になってきます。そして、ようよう眼が開き色や形が意識されてくる。 焦点も定まり、目で動きを追う。 表情が動き、手足の動きから寝返り、這いずりと身が活発になってくる。 ちょんこ座りからつたい立ちして歩き出す。 耳-鼻-舌-眼-身という五感がつながって「意」という六根という身心が拓いてくる。
六根という感官は、使えば使うほど敏感に、そして繊細に太くたくましくなっていきます。
重力に逆らって立ち上がることで人間は、自由に気づきます。立つということは、ですからとても人間的なことであり、立ち動くことは、心身の軸や外界との働きかけを拓くうえでとても大事なことといえます。
しかし、乳幼児から成長するにつれ、立つことは当たり前のこととして意識の地平から遠ざかっていきます。立つという外界とのバランスを感じとることは、片足で立ってみたり、目を閉じて立ってみると微妙なバランスの働きであることがわかります。
立つという動作の身のこなしは、時にはその人の人となりまでも感じさせることがあります。 立つ-歩く-座る-横たわるといった日常の身体の動作に六根を働かせてみると、身体感覚の微妙な感じ-知る働きに気づくことができます。

身体のウチとソトとの境界感覚

人差し指を頭上に掲げて時計回り(右回り)に廻します。 廻し続けて手が右回りを覚えたら、そのまま廻しながら軸を下げて目の高さまでおろしてきます。丁度、目と一致する高さのところでは指が水平に動くのが確かめられます。 さらに手を廻しながら下に降ろして上から見ると反時計回り(左回り)に見えます。 手は右回りに動かし続けているのに反対に回って見える。これは内側から見るのと外側から見ることの違いにすぎませんが、実感として反転して見える様は、ちょっとした驚きを感じさせます。 学生たちは、「気持ちわる〜い」とか、「変な感じ」とざわつきます。身体のウチとソトとの境界を越えるときの感覚ともいえそうです。
鏡でも、右手を挙げてる自分に鏡に映る自分に入れ替わると左手になってる感じです。
頭ではわかっているのですが、こう身体で実感するととても印象に残ります。ここには感覚と知覚のズレというか、意識の動きがわかります。


鏡を目の前に水平に置いて見ると天井が写り足元が心許なく感じます。 そっと歩いてみるとヒヤッとした感覚で一瞬、浮くような気もします。なんともおぼつかない様は、身体の感覚と意識が混乱して軽い眩暈を覚えます。
人は無意識のうちに自分の身体を軸に捉えています。 前後/左右/上下の軸は、自分の身体からでてくる基本的な軸です。さらに感覚作用は、自分を軸に受け止めます。 見た、聴いた、触れた、など、自分が感じたことと覚えます。
自分の皮膜を抜け出てウチとソトとの境目を感じる感覚は、身体感覚の基本的なことだといえます。 一般に、対象に感情移入したり、相手の立場で考えたり、俯瞰して見るといったことは、みな身体感覚の拡張といえます。
味覚や触覚は、皮膚感覚の触れ合いといういちばん生身の境界といえます。 体内の粘膜と皮膚は繋がっています。 味覚は体内に入ってくるときの感覚ですが、触覚は触れる触れられるという皮膚の感覚です。 両手を合わせると 〈触る-触られる〉という左右の手の感覚が揺らぎます。
皮膚の外縁は、熱や風、匂いという目に見えにくい空気や雰囲気、気配といったことを気づかせます。さらに音を感じる聴覚は、身体を包み込む空間や場所を感じさせます。
視覚は、身体の皮膜を飛び越えてはるかな星までも感じることができる一方で、ほんの数センチの壁の向こうは見えません。身体感覚の「意」の働きは、思う-想うという時空をも飛び越えた世界を感じさせてくれます。いわゆる想像の世界は、これら諸感覚が複合し引き起こす世界だともいえます。 昨今のバーチャルな感覚は、リアルと思ってる身体感覚が虚実の境界を揺さぶる新たなイリンクス(眩暈)をもたらしています。
一方で、言葉という言語の働きは、身の前にないモノやコトを描きだします。言葉の作用は、意識を通じて身体の「意」を媒介に諸感覚を誘発します。 言葉の働きもある意味自分を中心にして捉えられ発せられるといえます。 この文章も自分自身に語りかけています。 言葉は、その記号性や社会性が強い分、身体感は薄められますが身体感覚のように自分のウチとソトの境界を抜きには成り立たないといえます。

表現するということ

表現するというアートの行為は、〈自分を知る-自分を求める〉という自己実現ともいわれます。自分が 〈感じ-思い-あらわす〉という行為は、express というまさに ex- 「ソトへ-ソトに」という行為です。 そこには「他人に」とか「社会へ」というソトを言う前に、「自己のソトとウチ」という意味が先立ってきます。アートの基礎は、まさにこの「自己のソトとウチ」とを感じとる体験に他なりません。 自己のソトとウチを紡いでいくことは、ヒトはなぜアートするのか?への一つの回答であり、それは、まさに自我や自己というヒトが、人になる欲求であり、いわば「いきる」という〈あること-なること〉の交感であって欲しいと希っています。

初出;   芸術基礎教育センター ドキュメント2004 (京都造形芸術大学) より一部再編

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