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経験という名の思考の縛り

先日、あるラジオ番組に出演して、9月入学に関するテーマでお話をした。
番組の中で紹介されたリスナーからのツイートが、そうかもなと思った。

「高校生の息子を持つ母親です。息子に9月入学になったらどうする?と聞いてみましたところ、息子は『いいんじゃね?』と言っていました。」

最初に聞いた時は、ただ無関心なのかなと思ったけれど、番組のパーソナリティーの方と話をしていたら、そうでもないかなと思うようになった。

番組のパーソナリティの一人は、高校時代を部活にかけていた。いつの大会に向けてどこまでタイムを伸ばせるか、もうそのことに集中していたので、今年は大会ありませんも受け入れがたいショックだし、9月入学になって大会スケジュールも変わりますっていうのも、相当なダメージだと話していた。

なぜ、高校生は『いいんじゃね』と言ったのか?

「自分が18歳だとして、想像してみてください」というパーソナリティーの問いかけが考えるヒントになった。

高校のころって、今回の休校や自粛に限らず理不尽なことが沢山あった。次から次へと理不尽が出現しては、また次の理不尽がやってきた。一つの理不尽を超えると、それが経験として蓄積され同じものが二度目に来たら「それは、こういうことね」と対処の仕方が分かっていった。

僕は56歳。それなりの理不尽経験を重ねてはいるので、そうそう新たな理不尽は出現しない。いきなり4億円の負債みたいなこともあった。そこも何とか自己破産せずに切り抜けた。たぶん。

年を重ねると、自分の経験を通してモノやコトを見るようになる。なので、そこそこのことには慌てない。これは、逆に見ると経験に縛られていることになる。

経験を使うことももちろん大切。でも、経験に縛られず、やってみるしかないんじゃね?というのも人生の楽しみ方の一つ。

やったことがないので、やめときましょうぜではなく、やったことがないので、やるんでいいんじゃね? と挑戦してみるのもいいなと思った。どうせその理不尽はまたやってくる。


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