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この"ラジオ世界"の片隅で

ラジオってなんだろう、と最近考えていた。


ラジオそのものの話ではなく、自分にとっての話。
僕にとってのラジオとは何なのか。なんでこんなにラジオのことばかり考えてしまうのだろうか。


昔はこの問題についてあまり考えなかった。というかより、分かりやすくて固定的な意義が自分の中にあったように思う。

それは自分がほめられる場所。
面白いと思ってもらえる場所。 


一方で良くも悪くも少し前までラジオに依存していたようにも感じる。


いつのまにかラジオは「メールが読まれて興奮するためだけの場所」になってしまっていた。

しばらくしてメールが思うように読まれなくなり、ラジオを聴くのが嫌になった。

アニメや映画を見るのに割く時間が増えた。



でもやっぱりラジオのことが頭から離れなかった。


ラジオで読まれない自分が心配になってくる。
ラジオを聴いてないとソワソワしてくる。
なんだよこれと思う。


もう一度冷静になって、僕にとってラジオとは何なのか考えなければいけないと思った。



僕はラジオに救われたとは思わない。

確かにラジオを聴いて楽しいと感じることがあるし、メールが読まれた時に自己肯定感が高まることもある。
もしかしたらラジオネームがもっと有名になれば将来の仕事につながるかもしれない。


でもそれはラジオが僕を救ったのではなく、自分の努力が身を結んだだけである。

ラジオはそのための方法に過ぎない。


 

反対に僕がラジオを救っているとも思えない。

僕がいなくても面白いメールはいくらでも届くし、いつも通り番組は放送される。
メールが読まれることで番組に貢献できているとは、少なくとも僕は感じられない。




一方でラジオが嫌いなのかと言われたらそれは全然違う。こんなに気になってしまうのだから、心はラジオを求めているのだろう。



つまり、ラジオはただそこにあるだけなんだと思う。何もせずただこちらを見つめているだけ。


僕を救おうとはせず、陥れようともせず
ただ生活の中に居るだけ。




パーソナリティがフリートークをして、
リスナーがその声を聴き、
ハガキ職人がネタメールを送り、
ディレクターがメールを選ぶ。

そんな"ラジオ世界"がただそこに広がってるだけ。




僕がいなくてもラジオ世界は回り続ける。

そんなラジオ世界ではいろいろなことが起こる。世界とはそういうもの。



メールが読まれて嬉しかったり、読まれなくて悲しかったりする。

自分よりメールが読まれてる人に嫉妬したりする。

ステッカーが送られてきてワクワクしながら開封したりする。

好きなリスナーができたり、苦手なリスナーができてしまったりする。

お気に入りラジオが存続したり、打ち切りになったりする。




そんな嬉しいことも悲しいこともあるラジオ世界。メールが読まれなくて悔しすぎて泣いたこともあったこの世界。



でもやっぱりこのラジオ世界が僕は好きなんだと思う。ラジオが好きだ。




僕はラジオに救ってもらうことも、ラジオを救うこともできない。

でもこの世界で自分で自分をちょっとだけ救えるかもしれない。僕はこの大好きな世界でなら、自分を救える気がするのだ。







この"ラジオ世界"の片隅で何をしようか。


ラジオを聴く。メールを送る。
僕にとってのラジオはつまりこういうことだ。


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