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穀雨 第十八候 牡丹華

七十二候 第十八候 は、ぼたんはなさく。期間は 4/30~5/4頃。
日本のゴールデンウィークといかないまでも、タイでは1日のメーデーが休日で、その後の3、4日も祝日が続いてささやかな連休となりました。とはいえ、折しも拡大の懸念が迫ってくるCOVID-19の気配に(チェンマイ県はもっとも警戒すべき地域に指定されてしまいました!)、5月1日からは、ほぼロックダウンに近い措置が取られ、連休中は、自分以外には人は居なくなってしまったのではないか?と思うような水を打ったような静けさが続きました。

中には、以前は観光客だらけだったのが、今やほとんど人が居なくなった旧市街や寺院、お堀の散策を楽しむ人も居るようですが、人が居ない風景が楽しいのは、人びとの伸びやかな生活や喜怒哀楽のさざめきの間にふと天使が通り抜けるようなミュートの瞬間だからこそで、不安や悲しみや恐れによるひと気のなさはグロテスクに思えてしまい、とうてい外に出ようという気になりません。

結局、塀に囲まれてまるで小さな箱庭か透明な光と静寂で満たされたグラスの中にいるような心地の、家の庭で薔薇の世話をしたり、汗だくになりながら芝刈りをしたり、そうでなければ本を読むだけの淡々とした日々の連続に終わる休日となってしまいました。

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とはいえ、身体が光の粒子になって飛散してしまうかと思える庭の眩しさや、緑陰の箱のような部屋で、何も起きない長い時を過ごすのは、どこか幼い頃の夏休みの午後の永遠のような感覚を思い起こさせます。
何も無いようでいて、鳥や昆虫、植物のささめきは複雑で聞き飽きることなく、光や空の雲の移ろいもまた同様で、全身の感覚をもってしてもその豊穣さを受け止めきれず、もはやそれ自体が身体になりかわってしまうような透明な混沌は、なにか遠く懐かしい原郷めいて感じられ、その懐かしい混沌の名前を思い出そうとしている間に一日は過ぎていってしまうのです。

タイには残念ながら牡丹は育ちませんが、この数日間の散乱する光や影の中で、幾重にも感覚や記憶が重なり、開くさまはどこか時間の花のようであり、その形は透明な牡丹のようだった気がするのでした。

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