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手を振る先にあるもの

 乗り慣れた地下鉄に揺られ駅に着いた。改札を出るところで白髪の歳を召された紳士が立っていた。右手には銀色の保冷バックをぶら下げ左手には万彩な花束を持っている。祝い事の帰りだろうか。おじさんは優しい目をしていた。見つめる先には娘らしき大人の女性と孫たちが。おじさんはじっとその歩いている姿を見つめている。時折女性と孫は振り返り手を振る。おじさんは笑顔で手を振る。女性はまた歩き出す。見つめるおじさん。また振り返る。おじさん大きく手を振る。女性たちは去っていった。

この一連の流れを改札から出たばかりの私は券売機で切符を買うふりをしながら眺めていた。決して怪しいものではございませんよ。鉄道警察呼ばんといてね。この光景を見てただただ、いいなあと思った。小さな悦び。

待ち合わせ場所に立つ。待ち人が現れては去る。そしてまた新しい人が現れ去っていく。その繰り返し。寄せては返す波。サァ…サァ…囁いてるようだ。小さな海、瀬戸内海みたいな?

 或る男が待ち合わせ場所に立っていた。恋人でも待ってるんだろうと思ったら案の定彼女がやってきた。来て早々男は女の手を繋いで颯爽と去っていった。2人とも嬉しそうだった。こういうのいいなあと思いつつ俺もやろうかなと耽っていたが残念。私の目の前に来たのは飲みの約束を取り付けた男だった。野郎と手を繋ぐわけにもいかんしなあ、と一人ほくそ笑む。

待ち合わせ場所にて人と人とが逢うのを見るのも好きだが別れの場面を見るのも味わい深い。たいてい見送られる人よりも見送る人の方が口惜しそうな表情をしている。次会えるのはいつになるだろうか考えているのだろうか。それとも一日の思い出を振り返っているのかもしれない。記憶というよりは思い出のほうがふさわしい。思い出の方が暖かく感じるのは何故だろう。記憶は無機質な感じがする。

昔から人と会って別れる時はきっちり見送るようにしている。自分から無理に意識してそうしているわけではなく癖みたいなもの。多くの人を見送ってきた中で人によって見送られ方が違う。さようならと言ってから英国紳士のように一度も振り返ることなく帰っていく人もいるし、何度か振り返る見返り美人タイプもいる。振り返った人には盛大に手を振って声には出さないけど「じゃあねーー!」と思っている。

 正直その人が振り返ろうと振り向かないだろうと関係ない。これはあくまでも私なりのありがとうの意味なのだから相手に強いているわけではない。ただ自分の中でも2,3度振り返って手を振り返してくれる人の方がいいなと思ってる。

 人と会う中で何時どんなタイミングが最後になるかわからない。ほとんどの人は何十年も生きていくだろうし死別の意味で最後の別れを迎えることなど少ないだろう。

 大学生活を送る中で自分の中に大きな疑問が生まれていた。ある人と会ってこの先の人生で一度も会わなくなることと死によって別れることは会わないという点において本質的には同じなのに重みが違うということ。
実際そうなのだ。その人と今後一切会わないのなら別れ、喪失による死に近いはずだ。

 そうはいっても前者の方はまだ生きているのかもしれないという希望を孕んでいる。後者の方はあくまでも死。死はそれ以上語ることのできない事象だ。無いものは無い。

自分と会う人、いや会わない人もそうだが誰にも死んでほしくない。元気に生きててほしい。毎日とは言わないけど笑って過ごしてほしい。どんな形であれ。

そういう意味では手を振るという行為は相手に対しての祈りであるともいえる。また会おう、今度会った時もくだらない話をしよう、幸せに生きよう、そんな幾ばくかの想いが込められている。

 だから私は手を振り続けたい。ただただ手を振って多くのことに期待したい。手を振る先にあるもの、それは未来だ。明日が来ること、明日も共に生きることを夢見ていたいのかもしれない。

 


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