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その日暮らし

 大学生活でやり残したことが一つあった。一カ月ぐらいの間、東京の街に行き日雇い労働をしながらネットカフェで暮らすというもの。家もなくあてのない状況、厭世者であること。

 大学一年の時に一冊の本を読んだ。増田明利の「日給6000円の仕事の現場 今日から日雇い労働者になった」。当時の自分は暇があれば電車に乗り駅前の本屋で吟味する生活を送っていた。読むジャンルといえば新書であったりビジネス系の本をメインに読んでおり、たまに味変としてゴシップ系の話を読むといった次第。この本は題名を見た瞬間にそそられた。

 本の内容は作者が実際に日雇い労働で働きなが生活を送っていく。一万円札を握りしめ東京の街に繰り出す。住む家は決まっていない。いわばホームレス状態でスタートしネットカフェや安宿を拠点に転々と移動し生活を送る。そこでの仕事というのは会社の雑紙回収やビルの清掃といった誰でもできる(失礼)といった日雇い労働を行い飯代や風呂代、宿代を捻出する。

 前半部分だと作者はまあ余裕だろうと軽快な気持ちでいたのだが後半になるにつれ苛立ちが増大し、こんなにやってられるかといった半ばやけくそ気味になるのが面白い。

 この本を読んだ後自分の中で一つの決意が固まった。大学二年の夏、自分も同じように暮らしてみようと。大学生の自分は今一つ充実感など無かった。親からの仕送りで生活を成り立たせ、何の目標もなく大学に通い勉学を修めるという夢遊病のような状態。あまりにもテンプレートすぎる。もっと生活にリアリティが欲しい。限りなく極限状態に近いギリギリのような生活生きる実感。デカダン、退廃的でもいい。その日だけを見つめていたい。明日のことでもどうとなれ。明日は明日の自分がなんとかしてくれるだろう。とりあえず今のこの生活から抜け出し違う世界を感じたい。そんな衝動に駆られた。

 冒頭でも述べたようにこの計画は実行することなく終わった。新型ウイルスで外出さえも困難になってしまったからだ。まあ仕方ないといえば仕方ないという話なのだが。だがコロナ禍であろうと日雇い労働で生活をしている人はいるだろうし、ネットカフェ難民も当然いることだろう。一日の飯を食うために多くはない金を稼ぎ今日の寝床を見つめスーパーかなんかで買った惣菜やらパンなどを食う。彼らはこの状況に対しどのような心境で迎え順応していったのか。

 2.3年前のこと、駅前のビルの一角で寝泊まりしていた浮浪者がいた。自分は頻繁に駅前にいっていたのでかなりの確率で彼を見かけていた。寝袋に包まりながら傘を数本広げた姿は自分の神聖な領域であるかのように顕示しているようだった。起きているときの彼は遠い目をしながら宙を見つめていた。世間なんてなにくそといっているような目。俺は何ものにもすがらない。無頼なんだ。その姿パンク精神を感じた。私は彼らと話をしてみたいと思った。今までの人生と今、何を思うか。

 自分は大学生活を終え、会社へ勤めるようになった。毎朝6時に目をこすりながら目覚めしぶしぶシャワーを浴びスーツに着替え、歯を磨き、香水を身にまとい革靴を履き玄関の扉を開ける。あぁきっとこの先40年も同じ生活の繰り返しなんだろうなと思うと遠く感じる。でも働くことは脳を忙殺することができる。考えなくてもいいことを考えずに済む。現に今の自分の脳みそはすっきりしている。でもそうしていると自分の生活を鑑みることさえも減り妥協するようになる。生活どころではない。生き方さえも考えなくなる。

 大学生の自分は時間が有り余っていたから過去のこと将来のことどんな小さなことでさえも文字に起こしていた。文章を書くことは非常に難しいことだった。あぁでもないこうでもない、この表現はお粗末だなとか陳腐でしょうもないなとか年がら年中苦しいんでいた。でも今思うと幸せな時間であったと思う。当時はこんなこと意味があるのかと思った。自分があみ出した考え、気づきなどは後々熟成し味の染みた完成物となる。来る日も来る日も自己対峙…自己対峙…今日もまた自己対峙…。私は思う。自分のことについて深く考えないやつが人に対して誠実であるはずがないはずだ。人の振り見て我が振り直せじゃない。我が振り見て人と向き合え。そうに違いない。

 自分は今年で24歳になるわけだが将来どうなりたいんだろうか。自分が本当にやりたい仕事。本当にやりたい仕事ってなんだろうな。やりたいことってなんだろうな。そういう小さな出発点から始める。小さな夢を見る。人と会う。今の暮らしを捨ててみる。人の良い所悪いところを見る。どこかに出かける。昔の自分は何をするにしてもこの行動をすることでどんなメリットがあるか、はたして意味はあるのか、打算的なことを考えていた。気づいたら何もしない体たらくな人間になった。

  こりゃ良くねえなと思って、人との誘いやもっと気軽に行動してみた。誘われたら極力行くようにした。そうしたことで多くの価値観に触れ人それぞれに生き方があるんだなということを改めて知り生きるのが楽しくなった。

 この世界は多くの選択肢に満ち溢れている。あとは溢れたものを掬ってやる。どんなに無様でもいい、情けなくてもいい格好が悪くてもいい。そこにあるのは一つの反骨精神。くそったれ。このくだらなくて素晴らしき世界でやってやろうじゃないか。そんな気概を持つことも1つの生き方だ。

 


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