コロナ禍の中で思ったこと

1月に記事を書いて以来、実はその後バタバタとしていたと思ったら、武漢をはじめとした新型コロナウイルスに対するため、仕事の環境を整えたり、システム本番がはじまったりとしていたため、なんと3か月が過ぎてしまいました。

世の中はすっかり自粛モードですが、これはなんのための自粛なのかというのを考えた方がよく、この二週間の週末を見るになんと勝手な人が多いのかと吉祥寺や武蔵小山、戸越銀座などなどで感じてしまいます。

これは個人的なキャラクターが影響しているのは間違いないと思いますが、一つの要素に「教育」というのがあるのだと思います。

PTAで活動をさせていただいた時に、本当に教師の方々は苦労されていると感じました。

私が良く言っていたのは「後ろ手を組んで、顔を子供達の前に出している」というものです。

先生は当然ながら手を挙げてはならないわけですが、子供はそんなことはお構いなしにそれこそ教師を殴ったり、言葉の暴力を投げつけるわけですが、教師は手を挙げるのはもちろん、言葉できつく言うことさえはばかられるわけです。

それは例え親が「先生、うちの子を叱り飛ばしていいんですよ」と言っていたとしても、教師の方々はそれをしてはならないわけです。

個人的には私は体罰反対派・・・広い意味では正しいと思いますが、絶対に不要かと言われると悩むところです。

他人による体罰については極めて難しいところですが、親として子供を叩いたことがないかといえばあるわけで、それはどうしてかと考えるに否定できないからです。

しかし、そこに限度というものがあり、想いがあり、さまざまな葛藤があるわけで、だからこそ全部を否定できないと感じるわけです。

昭和39年生まれの私は、親父にはもちろん、教師からも殴られたことはありますが、では彼らが絶対的に悪かったかと言えばそうではないと考えるからこそ彼らを否定はしませんでした。

まあ父については教育熱心のあまりで算数のドリルができないとか、テストで80点を取ることができないとかでゲンコツがドーン!と頭に振ってきたわけですが、これには納得がいかなかったからこそ自分の子供達にはそういうことをしませんでした。(80点以下の点数を取ったのは小学校時代は一回か二回程度でしたが・・・)

教師から殴られたのは高校の時が鮮明ですが、勝手に講堂にあった卓球台を引っ張り出して球技大会の練習をしていた時、顧問の先生が「勝手に何をやっているんだ!」と殴られたわけですが、親友と共にあの時のことは「まあ殴られても仕方がない」と今でも言っています。

翌年まさかの担任になるとは思っていませんでしたが、私にとってはとても大切に思っている先生であり、恨みなどありませんし、明らかに私たちが悪かったわけですから、私たちが殴られたことに対して想うことはありませんが、今やったとしたら大問題になるのだろうなあと感じます。

さて、やっと本題です(苦笑)

「自分だけが良ければいい」「自分だけは大丈夫」こうした考えが多いのは、歴史的な背景などがあり、教育が変わったことに起因しているものも感じられます。

それは世代による違いを考えることで結論付けられます。

特に自由をはき違えるのは、はっきり書けば団塊の世代の子供達の世代以降だと感じます。

団塊の世代は学生運動華やかしころであり、彼らの安保闘争や自分たちなりの自由闘争であったかもしれませんが、残念ながらあれは自分たちの勝手のための暴力闘争であり、それに迷惑をかけられた同じ世代が就職に対してさんざん嫌な思いをしたため、せめて子供には自由をなどという勘違いをしたからこそ、そういう子供への教育をしたことが原因となっていると感じます。

私の叔父などもよくそう言いますし、先輩たちと話していて「子供達には自由な・・・」なんてのをよく聞きます。

おかげで育ったのは我々のちょっとあとの新人類の次の「段階子供世代」が誕生したわけです。

実はPTAで活動させていただいた時に、若いご両親の中にいわゆる我儘放題育ったんだろうなあという方がいらっしゃいました。

感覚的に違うのは、私が僻地出身者であることも起因しているでしょうが、生活背景の違いが生んだ感覚的な違いというもの感じたわけです。

こうした方々とは対立をしたわけではなく、理解するためにいろいろと話をするわけですが、中には「うちの子がいじめられた!!!!」とかいって校長室にいきなり来るような方がいらっしゃいましたが、同席して話をすると「あなたの子供が学校で何をしているのか知っていますか?」と私から言わせてもらったことがほぼ全部でした。

それほど自分の身のことは全く考えずに自由だ権利だと騒ぐわけです。

このコロナ禍でTwitterを見ていて、全く同じ臭いを感じるのは完全に「自由」と「権利」をはき違えていることであり、「義務」を全く果たそうとせずに行っていることだと思うわけです。

もっと言ってしまえば目先の利益だけしか考えず、自分勝手な理論を振りかざし、他者の意見で違うことがあれば否定すると、とにかく自分が中心でしかないわけです。

それともう一つ幼いと感じるのは「権力に対峙しているのがかっこいい」なんていう勘違いをしていることでしょう。

これこそその方の親の世代の影響なのだろうなあと思うわけです。

本人が親の教えの中から意識しているかどうかは別として、少なくともそういう方が多いと感じるのは間違いがありません。

まあ本来大人になれば現実を理解して、コンサバティブな部分がでてくるはずなのですが、うまくいかない人や自由気ままに育った人にはそういうところもなく、平等のみが尊いなどと勘違いをするわけで、実際は機会の平等は必要だが、人間とは環境の違いによりすべてが平等ではないという現実を知る必要があります。

ちょいととりとめもない文章となりましたが、私が生まれた昭和39年の大夕張炭鉱周辺はほぼ等しく貧しかったため、自分が貧しいとか感じたことがありませんでしたが、うちに金がないことだけはわかっていたため、我儘など言える状況ではありませんでした。

年長時に札幌の隣の江別市に引っ越しをして、少なくとも大夕張よりはるかに豊かであったように感じたわけですが、それでも今だから考えるに到底モノが豊かではなかったと思います。

そういう中で育ったからこそコロナ禍であっても我慢ということを考えることができるのかしら?とか思ったりもします。

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