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あの娘のマスク

俺が幼いころから、女はみんな、常にマスクをつけていた。
理由はわからないが、夏も冬も、水泳でもマラソンでも、女の口元は布に覆われている。飲食も、男女は別にしなければいけない。うわさによると、銭湯でも外さないらしい。母親や妹であっても、素顔を見たのは一度か二度。
だから男たちは、なかなか見られない女の素顔を、日夜「目にしたい」と焦がれていた。
かわいい子が前を通れば、マスクの下を想像する。彼女ができたやつがいれば、「もうマスク外した?」「どんな唇してた?」なんて話でもちきりだ。とくに今日のような、暇をもてあました自習の時間なんかは。
「なぁ風見。お前はもう、彼女のマスク外した?」
 机に伏して寝ようとしていた俺は、マスク話に盛り上がっていたグループに起こされる。「まだだよ」と返したら質問はさらに増え、昼寝ができないままチャイムが鳴った。

「あぁ、暑い。こんなに暑いと、なんにもやる気が起きないよね」
市原朝陽は制服のスカートの裾を持ち上げ、バサバサとあおいでいた。膝と太ももがあらわになり、下に履いている体操着の短パンが見えた。そんなに暑いなら、マスクなんか外せばいいのに。
「なぁ、さっきの六限目、女子はなにしてた?」
 きょうの六限目は、月に一回だけある、男女でわかれる時間だった。中学からはじまった授業だが、やる意味がよくわからない。
「うーん、男子と同じようなものだと思うよ」
 ほぼ毎回、俺たちは自習になるから、くだらない話や昼寝をしている。女だけでも「マスク外した?」なんて話をするのだろうか。
「それよりさ、よかったら今から、うちに来ない? 今日、誰もいないし」

勉強机と、ぬいぐるみがいくつも置かれたベッド。いかにも女子の部屋だ。ピンクのクッションに腰掛け、グラスにそそがれた麦茶を飲む。市原はそれを、ただ見ていた。
「市原は飲まないのか?」
「私は、いいよ」
 マスクを外さないと、飲めないから。
「市原。俺の前でマスクを外すのは、いやか?」
 大きくて丸い目が、さらに見開かれる。女は口元が覆われているから、ときどき表情が読み取れない。しかし市原の目は、喜怒哀楽のすべてを表現しているように、わかりやすく変わる。
「男子って、やっぱり見たいと思ってるんだ」
「俺は市原だから見たい」
「でも、全然きれいじゃないよ。見たら私のこと、嫌いになっちゃうかも」
「嫌いになんかならない。好きだから、見たいんだ」
 市原はじっとりとした目を、自分の膝に落としている。これは、どういう気持ちなんだろう?
「風見くんになら、いいよ」
 市原は目をとじて、顎を上げる。俺は耳に指をかけ、白い紐を外した。暑くなった最近では、鼻や唇の形があらわになるほど、薄手のマスクが流行っている。けれど市原は、夏でも透け感のない、不織布のマスクをつけていた。
 両耳の紐が外れると、彼女は小さく声をもらした。低くて丸い鼻。やわらかそうな頬は、暑さのせいか、恥じらいのためか、薄い桃色に染まっている。
「あんまり見られると、恥ずかしいよ」
 そう言ってふくらます頬に、触れたくなって、手を伸ばす。
「やわらかい」
 つまんでみると、弾力とつやがあるのもわかる。いつまでも、触れていたいほど心地よかった。
 マスクを外してわかった。市原は、唇も喜怒哀楽がわかりやすい。ぽってりとした唇は「触りすぎだよ」と言いつつも、喜んでいるらしい。
 口を開くと、白い歯の間からほんの少しだけ、赤く湿った舌がのぞく。そこにも触れてみたい。手でつまむよりも、もっと深くまで。
 俺は彼女の唇に、自分の唇を押し当てた。

 なんであんなことをしてしまったんだろう。
 家に帰ってからも、さっき自分がしたことについて考えていた。
 世の中には「唇に唇を重ねる」という、奇妙な行動があるものだろうか。あれは恋人のいる者全員が、やりたくて仕方がないものだろうか。それとも俺だけがやりたくて仕方がなかった、世にも奇妙な行動なのか。
市原は、どう感じただろう。
考えていると、みぞおちのあたりが、つねられたように痛む。どうにかなってしまいそうだったので、リビングでテレビを観ることにした。
 画面には、マスクをつけた女が映っていた。二十代前半くらいの、若い女。正面に立っている男が、女の耳に手をかける。マスクを持った男の手と、二人の重なる影が映る。
 これはさっき、俺が市原にしたことじゃないか?
 続けて、口元を押さえた女が映る。彼女は、さっきの市原みたいにじっとりした目で「こんなことしたら、赤ちゃんができちゃうよ」と言った。
「お兄ちゃん、次お風呂どうそぉ。うわ、変なドラマ観てる!」
静かだった部屋に響く、大声。妹だ。風呂上がりの髪はまだ濡れていて、ほのかにシャンプーの香りがする。着替えを部屋に忘れたのか、身体にはバスタオルを巻いている。
「違う、たまたまつけただけだって」
「なにこれ、意味わかんない。キスで妊娠するわけないじゃん」
「え。今、なんて言った?」
「だから、キスで妊娠するわけないって」
「さっき二人がしてたのは、キスっていうのか?」
 妹は、奇妙なものでも見るような目をしていた。
「男って、本当になにも知らないんだ。ねぇ、牛乳飲みたいからさ、さっさとお風呂に行ってくれない?」
無防備な恰好でいながら、妹の口元はマスクに覆われていた。


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