餅つきとそこから生まれる考え。


 本日(11/2)、私は自分の家にてモチをついていた。この日は労働から逃れられる、貴重なハレの日であり、そういう日にモチを食べるのは古来の風習からしても是認されるだろう。そのような思いで、昨日の重労働の疲れもどこへやら、朝はしっかり二度寝をして7時に起き、朝早くから餅つきの準備をしていた。もち米を蒸かすところから始めなければならず、昼食に間に合わせるには早く準備しないといけないからだ。もち米は、家の隣の田んぼの農家さんから、稲わらをもらった時に頼んで、新米を30kg買った。普段私は「だめに生きられる地域を」とのことで、定時での行動や、高度な労働力の支出を求められる賃労働に依存せずともに生きられるように、自給を追求しているのだが、コメに関しては厳しい。投下する労働力と収穫物が見合わない。そのため、購買という手段に頼った。そうして購入したもち米を、前日のうちに研いで水につけておいた。
 そのように準備したもち米をまずは蒸かさないといけない。というわけで、枝おろしの際に出た小枝を使って火をおこし、窯で蒸かす。

  この状態で1時間程度火力を調節しながら蒸かす必要があるのだが、火の管理さえしておけばよいため、かんがえごとをしていた。
 こうやって火を起こすことは電気とガスの代わりになり、火と明かりを自給できるわけだが、そのための枝をどこから得るか。今回は梅の枝おろしの際に出たものを使った。しかし、日常使いをしていればすぐに枯渇してしまう。しかし、一つの手段として梅の木などを増やすのはいいのではないか?梅干しなどの生産量を増やせるし……。勝手果樹園というのも、管理が多少適当でもよさそうだし……。
 いや、前近代的農村のように、入会地のような場所を設けられないか、そういえば、前市議会議員が、今回導入された森林環境税の使い道がないと言っていたな(行田市は大規模な森林のない平地のため)……。そういうのを使って共有の入会地というものを作れないだろうか。
 まてよ、恒常的に燃やしていたら二酸化炭素の排出量も相当なものだよな……。それってどうなんだろう……。木材の生産量と消費量から少なくとも二酸化炭素の排出量と吸収量がイコールになるだけ使うようにするべきか……。
 等々、等々考えていた。たき火で暖をとるという考えは、家に暖房がない私にとっては魅力的だが、供給と環境を考えると、無制限にはできなさそうだ。

 そうこうしているうちにもち米が蒸けて、臼に投入される。そして、杵でひたすらつかれるわけですが……。

  腰(と腕)が痛い。 ひたすらついていくと、だんだん腕が重くなり、腰が悲鳴を上げていく。こうした腕の重さと腰の痛さにさいなまれながら、一つの考えに至る。道具や機械の発展というものは、人間の解放に重要な意味を持つ、と。生産力の発展がその時々の社会の生産様式と矛盾して生産様式の交代が起こるというのは当たり前の話であるが、道具や機械の発展が人間の肉体的差を埋めてくれることで、「肉体的自然的性差」による分業をなくす(あるいは最小限にする、人間の再生産は機械で代置できるか?不可能か?)ことで、それから由来する社会的差別をなくす(あるいは最小限にする)ことができるのではないか?
 そんなことを思いながら、悲鳴を上げつつモチをついた。そしてできあがる。出来上がったらすぐに昼食としてあんこ餅と醤油餅にしていただく。

 今日は、餅つきという実践から、経済問題・環境問題・燃料問題・性差別について考えさせられた。私としてはこの実践から何かしらを引き出し、総括してだめに生きられる地域づくりに生かしていきたい限りである。


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