養成所の話 つづき

ブッチャーブラザーズのぶっちゃあさんから情報をいただいたので付け加えておく。
私が養成所の責任者を断った後に、ブッチャーブラザーズそれぞれに話をふっていたが断られたとのこと。それは失念しておりました。
その後は2人に講師だけをお願いすることになったのだ。
実はこれにも私は反対していた。反対することが自分の役割だと思っていた。少しでも思い込みや暴走状態を止めるのだ。
二人ともまだ現役じゃないですか。
現役芸人が講師になるのは半分「あがり」みたいなイメージがつかないのかなあ?
「でもよお、芸人はいつまでも続けられっかわからんだろう。いつかはこんなこともすることになるだろう。それにある程度の収入を保証できるし」と、社長。
うむ。なるほど。一理ある。社長はまず芸人の生活が成り立つかどうかを第一に考えていた人。いまほど芸人の数が多くなかった時代だったから成立した考えだと思うが。
話はそれるが、自分は入社時に何をどうしていきたいのかの作文を書かされた。宿題みたいね。いろいろ将来こんな仕事、こんね冠番組を、こんな位置にとか書いたのだったが、「お前さあ、あいつらの生活のこと具体的に考えてないみたいだよ。あいつらにも家族いるんだよ。金稼ぐこともちゃんと考えて」と言われた。リアル。夢だけじゃ食っていけないと。いろいろな経験してきたんだろうなあと想像してみた。

とにかく、考えてみれば毎月自分たち主催のライブをやり続け、膨大な量のネタを見てダメ出しすらやっているブッチャーブラザーズは講師には最適任かも知れん。それに面倒見がいいことは私自身もよく知っている。あとは芸人としての本人の意識の持ちようなのかあ…と。
これは結果的には杞憂にすぎなかったのよ。逆だったみたい。今ではベテラン東京芸人全体の師匠的な存在になっちゃったんだもの。

養成所の名称はスクールJCAとした。
Jは人力舎、Cはキメラchimera、AはアッシュアンドディーASH&Dだと言われている。
キメラは大竹まことが作った映像制作会社だが、後に手放す。アッシュはシティボーイズが独立して作ったプロダクション。
どちらも人力舎から派生したもなだが、養成所とはまったく関わりはない。
この2社が頭にはあったけど明確に意味づけして考えたわけではないとのこと。じぇいしーえー。なんとなく響きがいいからだと社長は言っていた。「面倒くさいからどうとでも考えてちょーだい。」
日本自転車協会と同じだしJACともまぎらわしいと思ったんだけどなあ。

授業は月水金、午前中は基礎を2時間やり午後は2時間学科的なことをやることになった。午前中は全て前田がやるという。発声、柔軟、肉体訓練などなど全部。タップダンスも教えるという。タップダンスについては必要あるかなあ?と思ったが、人前にでる者は全身を見られるのが必然だし、そのためにはボディコントロールが必要となる。タップダンスはサッカーのリフティング以上にボディバランスが鍛えられそうだ。自分もタップダンス経験はあるので。
前田は以前アダージェット=男女ペアでのダンスや、リンボーダンスのショーで米軍キャンプやキャバレーを周っていた人。ステージでの動きのプロだったのだ。
現役引退後は裏方にまわり芸人やミュージシャンを米軍キャンプやキャバレーやホテルのショーに送り込む仕事をしていたという。なんか戦後感あるなあ。歳いくつだよ!?
生徒集めはチラシをライブで配り、といっても今と違い都内のお笑いライブはブッチャーブラザーズ主催のものを含めてもあまりない時代だったが、あとはオーディション雑誌「デ・ビュー」とかに広告を載せた。
写真は当時事務所で一番知名度のあった大竹まことを使った。
ただ、これは少々詐欺まがい。大竹は講師なんかやらねえよ!と断言していたし、きたろうもやりたくないと。シティボーイズでは斉木しげるだけが講師をやってもいいと言っていた。
10月開校に向けて履歴書が集まった。10人ほどだった。こりゃ赤字だぞと思った。
一応面接というかオーディションらしきこともしたが全員合格にする。"危ない奴"じゃなかったらいいんだ、と。若い人間は変わるものなんだって。
アンジャッシュ児島がいた。引きこもり気味だった子が真面目に授業出るようになってありがたいと児島のお母様が菓子折りをもってきたこともあった。
後に映像監督になる大九明子がいた。演技力が一番あった。
元法政大学落研の男がいた。後にゲイボーイのショーで有名な新宿歌舞伎町「黒鳥の湖」のタレントになる。
最年長は29歳の、昇進する内示を受けていたのに大手百貨店を退職して入学してきた奴がいた。後に作家になる。
最年少は18歳の藤代。卒業後ホリプロでお笑いを続けた。
今のように普通に教育機関を卒業してからくる奴ばかりではなく、ややこじらせ気味が多かった。お笑いだもの。当然のことだった。お笑いは今のように社会的に認められていない時代。よほどの覚悟があるか、こじらせてなければ飛び込めない世界だった。
すぐに二期生の募集を始めた。二期は5月入校にする。3月4月に大学にも専門学校にも、どこにも入らなかったおこぼれを頂戴します、というわけだ。
二期生にはダンディ坂野、ユリオカ超特急、東京03の飯塚、そして児島の同級生の渡部がいた。児島がどうしても組みたいと呼んできたのだ。一、二期は半年ずれていのだが今ではもう同期扱いになっている。
そして三期生。そこにはアンタッチャブルの柴田と山崎がいた。

つづく。

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