メガネもかけてないくせにナマイキだぞう!

「コンタクトにしてみたんだ~」

俺にモラハラをするのが、そんなに楽しいかね。

「メガネだと目が小さく見えちゃって~」

ふむ、君が小さいのは目ではなく『心』ではないかね。

メガネをかけてほしいのである。いや、かけなければならない。人間はメガネをかけてこそ、人たりえる。
メガネというのは現代の圧倒的シェアを持った医療器具である。それについて文句を言う人間は今さらいないであろう。メガネの歴史は古い。そのぶん、過去と現在のメガネは大きく違う。いや、メガネについて言うなら変化はもっと短いサイクルで行われている。バブル時代のメガネと今のメガネは全く別物だし、もっと短いサイクルの話をすれば、五年前でも別物である。一時期流行った縦の細いメガネは下火になり、少し太めのメガネが主流となってきている。
昔こそアラレちゃんメガネなどと揶揄をされたメガネも、現在はオシャレなメガネと扱われている。

ええいしゃらくせえ。俺が言いたいのはそんなことじゃねえ。
なぜ君たちはメガネをかけないのか、それを叱責しようとしてんだ、俺は。
視力が悪くない?ええい、俺がいつ視力の話をした。メガネの話をしてんだ、こちとら。

メガネが好きなのである。生まれついてのメガネ好きというわけではない。いつか、なにかからによって目が開かれたのだ。まだわからないというあなた方は、魂のステージが低い。まだ前世のカルマに囚われている。

そんなことはどうでもいい。一般的に思われているメガネとはどんなイメージだろうか。真面目、暗い、優等生、委員長……。各々に様々があるだろう。しかし、それでいいのだ。
メガネ好きが、いつ、何によって開眼するのかはまだ解明されていない。恐らく今世紀中には正式な論文がオックスフォードあたりから発表されるのではないかと睨んでいる。

メガネは近代的とも言える。俺が前から主張していることなのだが、全裸の中年男性が街を歩いていたとする。もしもメガネをかけていなければ

「もしかしてこの人、服を着ない時代からタイムスリップしてきた人なのでは?」

そういう可能性を否定することはできない。
だがメガネをかけていたらどうだろう。

「メガネをかけているのに服を着ていない!これは現代の露出狂だ!」

すぐわかる。メガネは歴史を決定づける重要な文化であるのだ。

メガネの重要性について理解していただけたところで次に行こう。俺には時間が無い。メガネを軽んじる人間を許しておく時間が無い。

漫画の描写で用いられる『メガネを外したら美人』設定にも言っておきたいことがある。
まず、メガネをかけていた方が美人に決まっている。
日本人は基本的に顔が薄い。顔に強い印象が無いのだ。もちろんそれ自体は悪いことではない。
かのアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの言葉を借りるのであれば

『完璧とは、これ以上加えられないときではなく、これ以上削りとれないときに達成されるようだ』

こういうことである。シンプルなこと、それが一番美しい。シンプルとは何か?あるがままにあることであろう。
つまりメガネをかけている人間は、あるがままにメガネをかけているべきなのだ。それこそが究極の美である。

メガネが似合わないと嘆く声を聞いたことがある。それは選んだメガネが似合っていないだけだ。人に似合わないメガネなどこの世に無い。断言できる。全てのメガネが似合わない人がいたとしたら、現代の装飾文化の、医療器具の敗北である。メガネについて研鑽を重ねてきた彼らを侮辱することは例え天が許しても、この俺が許さない。
でもメガネをかけてくれるなら、許してしまうかもしれない。

できるならば俺が、全ての方々のメガネをコーディネートして差し上げたいところだが、そういうわけにもいかない。俺だって、飯を食ったりぐっすり眠ったり、インターネットでメガネ美女の画像を探すのに忙しい。
コーディネート部分の前に一点言っておきたいことがある。
自分自身で「メガネが似合わない!」という人の多くは、メガネである自分を見慣れていないことが多い。それは、あたかも自分に羽が生えたことを見慣れていない、生まれたての天使のように……。

馴染むもんなのだ。自分で「ああ、こんなもんだな」と思ってしまうまでに、そう時間はかからない。それに、自分で似合っていないかもと思っているその気持ちが態度に現れる。
自信を持て。君は美しい。そしてメガネをかけた君は、もっと美しい。

授業中だけ、パソコン作業をするときにだけメガネをかける人はいる。メガネをウザいと感じているのか、それともメガネをかけた自分に自信がないのかは、俺には知る由もない。そして『たまにかけるメガネにグッと来る』という人間もいる。そんなものはただギャップを楽しんでいるに過ぎない。
これは先程の『メガネを外したら美人』設定にも繋がってくることだが、もしもその人と距離が近くなったら、常に見るのはメガネありバージョンだぞということだ。
付き合ったとしよう、結婚したとしよう。あなたには素を見せる。一日中、朝起きて寝る前までコンタクトをしている人はどのくらいいるかという話だ。またコンタクトは花粉症だと目が異常にかゆいし、たまにゴミが入ってメチャメチャ痛いし、落とすことだってある。
そのときはどうなる?そう、メガネだ。

ギャップを楽しむならいい。普段と違うものは新鮮だし、気持ちはわかる。だがキャップを感じたものが日常になったらどうだろう。どちらが正解という話でもないが、心理として感じておかなければならない。
つーか、その程度で気になるだのときめいただの言ってるやつは絶対他の人にも同じこと言うから!!
外見しか見てねえから!内面とか見てねえから!!

偏見を吐き出すのはこのくらいにしておかないと路地裏で刺されそうで怖いのでやめる。

メガネは自然である。日常が感じられる。外ではジャスミンティーになっていたとしても、家に帰れば緑茶や麦茶だったりするものだ。気負わない自然体、日々過ごす姿とは、これ以上削りとれないものではないだろうか。

非日常でかけるメガネをバカにしているわけではない。もちろんそれだってアリだ。毎日味噌汁では「今日は違うなあ~」と思ったりするだろう。コーンスープやクラムチャウダーが飲みたい日だってある。
そんな日はある。だが、毎日を特別にすることはできない。疲れてしまう。飲む側だけでなく、作る側だって疲れてしまう。日常でいいじゃないか。味噌汁でいいじゃないか。たまにはインスタントもいいじゃないか。

結局の所、気負いのない部分が一番我々の心に響くのではないだろうか。だからといってメガネが気負いのないというのは別の話なのだが。メガネは、美しいのだ。

俺の言いたいメガネへの気持ちを余すところ無く文章にすると、大技林くらいの量になってしまう可能性があるので締めに入る。

メガネというものは人のコンプレックスになり得る。
「メガネじゃなかったら……」
「素で恥ずかしい……」

そう思ってしまう人は少なからずいる。それは本当にメガネが原因なのだろうか。
もう少し掘り下げて気持ちを整理してみよう。

「メガネじゃなかったら……」
メガネではなかったとき、あなたは完璧であると言えるだろうか。

「素で恥ずかしい……」
素ではないあなたを好きになる人はいるだろうか。

メガネは素顔を隠すペルソナにもなり得る。それを是と取るか非と取るかはあなた次第だ。だが、メガネがあるかどうか程度でその人を判断してしまう他者など、その程度の存在以上になることはない。だから自信を持ってメガネをかけ、医療器具であると同時にファッション性も高いメガネと今一度向き合って欲しいと思う。


『メガネがあるかどうか程度でその人を判断してしまう他者など、その程度の存在以上になることはない』
このように書いた。
だから、俺のような者の話は絶対に聞いてはいけないのである。
みんな、メガネをかけろ。

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