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世の中で金は過大評価されすぎている

雑記

いつからか
何を得てもこびりつく虚しさが剥がれなくなった。
生き物であることの根本的な虚しさ。

真夜中に目が覚めて
目の前にはモノの影がある。
本棚、レコード、ゲーム、酒瓶、ギター、机、コップ、ごみ。

これは全部、自分で自分を楽しませるために買って、消費して、そしていずれ捨てられていくものだ。

何のために?

私は何のために本を読み、音楽を聴き、酒を飲んでいる?
何のために自分で自分を快くさせている?

言語化できない悲しさを誤魔化すため。
底の見えない心の穴のすきま風を遮るため。
それをモノで埋めようとしてきた。

そもそもなぜ穴が空いている?

社会人になってから
なぜ人がそこまで金に執着するのか
分からなかった。
金のために人を殺すし、金のために命を賭けるひともいる。

金で買えるものでは、何も心の穴は埋めてくれなかった。
ほんのひと時、目を逸らさせてくれるだけだ。

酒はそれなりにコスパが良い。
200円くらい払えば数時間は現実逃避できる。

ゲームは長期間強力な催眠をかけてくれるが、その副作用は大きい。

「俺は一体このゲームに何時間使ったんだろう。はやくクリアしてこのゲームを辞めなくちゃ」


何かを成さなければならないという強迫観念の中で、何も見つけられないでいる。
そしてまた、その恐怖から目を逸らすために
モノを求めている。

眠ることも、食べることも、遊ぶことも
夏休みの宿題を放置しながらやっている感覚の中にある。

所詮、金では本質的なものは何も解決できなかった。

世の中で金ほど過大評価されているものはない
というのは言い過ぎか。

もちろん金は大事で、必要なものだというのは
分かっている。

10代の時は虚無僧になりたかった。

あれが欲しい、これも欲しい、もっと欲しい。
こうなりたい、ああなりたい。
何かを求めることが当たり前かのように
人々がそういう共通認識を持っているのに
違和感があった。
それを得て解決できるのか?

生まれた時からインストールされているプログラムに、どこか違和感を感じていて
それでも、それを取り外すと死んでしまう。

執着を捨てて、煩悩を捨て去って
何もない世界に行けたら。
それもまた執着だ。

生き物であることをやめられるなら。

生まれ変われるなら、石になりたい。

石は何も求めない。
ただ存在だけがある。

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