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海のはじまり3話までの感想-「投影」と「贖罪」-

久々にドラマにはまった。『海のはじまり』だ。
先日の第3話放送後にTwitterをだらだら見ていたら、「女で一つで子供を育てる困難さが云々」「辛いのは分かるけど大竹しのぶ性格悪すぎ云々」などという感想を見つけた。私が抱いた感想とはまったく違った。
そこで、始まったばかりではあるが同じような感想も抱いている人もいるだろうと思い、ペンを握ることにした。

___海のはじまり。テーマは「投影」と「贖罪」だと思った。
全員が罪を抱え、全員が相手越しに幽霊を視てる。

たとえば水季の母、朱音が「視ている」のは常に水季だろう。海を見るときも、孫としてじゃなく水季の娘として見ている。背後に、もうこの世にはいない、自分が苦労して産んで、苦労して育てた最愛の娘の水季を「視ている」。彼女を守ってあげられなかった罪を抱きながら。
朱音は海とまったく対話していない。海のことをまったく見ていない。もういない水季とばかり仏壇で話している。

津野が「視ている」のも水季。元カレの夏越しに、水季を「視ている」。津野が水季に好意を寄せていたのは誰が見ても明らかで、水季を窮地に追い込んだ夏を許せない。なによりも、当時付き合ってすらいなかった夏に勝てなかったことへの、そして今は海すらも持っていかれたことへの、痛々しいほどの強い嫉妬という罪を抱きながら、もういない水季を追い求めている。

私が関心を寄せている登場人物は津野である。まだ彼と水季の関係は何も明かされていないが、津野には何もない。唯一、自分を救ってくれそうな存在の海も、まったく津野を見ていない。海の世界には夏と水季だけだからだ。そして、何よりも津野自身がそのことを自覚している。津野は作中で、最も孤独だ。個人的には、津野のはじまりを早く見たい。

弥生は、海越しに自分が堕ろした(=殺した)赤子を「視ている」。背景はどうであれ、自分が犯した中絶という罪は、自分が今愛している男が忌む行為であった。弥生は、不幸から這い上がり、今手にしている幸福をなんとしても手放したくない。殺人という罪を贖うために海と関わる。しかし、海は自分が弥生の贖罪の踏み台になることを是としない。当たり前だが、海は弥生の罪を贖うために生きているわけではない。だから、どんなに優しくされても、夏を選ぶ。

夏も初めは海を水季の娘として見ていた。海越しに水季を「視ていた」。聞かされなかったとはいえ、自分が見捨てたという罪を抱きながら。
しかし、自分が父親だということが分かると、海を海として見るようになった。だから、海が気丈に振る舞うさまを見破った。そして、家族だからこそ本心を海にぶつけることができた。1話のときの夏なら、3話と同じ状況になっても「えらいね」と言って終わりだっただろう。
海は夏が自分を見ていると分かったから心を開いた。海がはじまった瞬間だった。海は、水季を亡くしてからようやく、自分をありのままに見てくれる存在に出会えた。

私は、今後このドラマは登場人物たちの”憑き物落とし”で展開されていくと思う。それぞれに憑いた幽霊が落とされて、それぞれの足で立って歩き始められるといいなと思う。

個人的に期待しているのは、水季が、なぜ真実を夏に隠して、夏を捨てたのか、そしてそれがどのように語られるかというところ。
この手の話は、何をどこまで誰が語るかが非常に重要で、むしろそこにだけ美が宿る。それはつまり、「何を描かないか/語らないか」も、同時に重要であるということだ。
夏が流されやすいからさらっと朱音の口から語られてはいたが、それが本当なのかどうか___。

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