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「2」の偉大さ

小学校4年生の3男。私が今文学院修士課程で博物館教育を学んでいるのはこの子の影響が大きい。

小さい時から数字やパズルが好きで、手先は器用なわけではないが、折り紙はやたら出来る。観察して描く絵はやたらうまく、忠実に描こうとするが、人物の表情や動きには興味がないため描くことが出来ない(最近は描いているらしい)。

幼稚園の頃から、集団の中で感化し合いながら出来ることが増えていく年相応の同級生に比べて、明らかにアンバランスな発達具合の三男。…と言って、その環境への適応に苦しみ、困難を抱えているほど、と言うわけでもなく、寛容な先生方や近所の方々の理解と愛情もあってスクスクと育った。

アンバランスさにびっくりして尖ってる部分を叩いて丸くしていく、という教育も過去にはあったかもしれないが、今のご時世それは流行らないだろう。
彼の興味の向くまま、時間の許す限り、私も彼に付き合うように努めた。たとえ鼻をかめなくても、宿題をやらなくても、絶対に持って行かなくちゃならないものを「持たなくてもいい」と言い張っても、眼鏡をかけたまま寝ていても、吃音が重くなっても、そういうことに注力しないで、彼が好きでやっていることに注意を向けるよう努めた。
具体的には水族館や博物館へ連れていくこと。図鑑を揃えること。ダーウィンが来た!の録画を見ること。折り紙をたくさん買うこと。そして、公文へ通わせること。

公文には賛否あるかもしれないけれど、うちの三男には功を奏した。こういう類の子のために公文はあるのだと思う(極論)。公文に通っていると天才的にできる子(小学生で微分積分、とか中学生で大学研究レベル、とか)の話を聞くけれど、うちの子はそうではなかった。でも数字の世界を「美しい」と思える感性が育った。

今日の公文の帰り、「2、って一番大きな数だと思う」とのたまう三男。どゆこと?と訝しい顔をする私。
吃音持ちなので途切れ途切れになるけれど、彼が言いたかったことはこうである。

「2」が生まれたことで「量」が飛躍的に増える。10に1をかけても10だし、1で割っても10。1っていうのが「真ん中」な数字の姿だけれども、2が来たことで数が変化する…。

ちょっとわかりにくいかもしれない。彼は「2」という数字の概念の話をしている。0は無、1は存在、2は「増える・動かす」という全く新しい概念を示していて、2が無いとその後の大きい数もあり得ないんだから、2の功績は大きい、という話。

実は、私が生まれて初めて書いたネットブログ(1996~7年頃)に同じようなテーマがある。当時の私は「デザインは0から1を生み出す作業だと思いがちだが、実は1から2へ拓く作業じゃないか」と持論を展開している。三男の話を聞いて急にそのことを思い出した。

母親が18、19歳の斜に構えていた時期になんでも理屈っぽくとらえて偉そうに考えていたことを、10歳の息子が純粋に「2はすごい」と感動と共に教えてくれる。そしてその感動を拾える私で良かった、と安堵する。

子どもたちが自分で体験、収集した知識を言語化する時、あまりにも突飛だったり単語の定義が外れていたりするかもしれない。でも、自分の中に構成された「何か」を表現しようとしている瞬間、そこに至る過程が学びなんじゃないか。

固定的な、0が1になるように欠如モデル的な学びを通して得られるような知識観を「1」とするなら、関係性を演出し、あらゆる計算方法によって結果を多様に広げていく社会構成主義的な知識観が「2」ということなのではないだろうか。
そんなややこしいことを言わなくても「2」ってすごい、という美しさに魅かれるって素敵なことだと思う。


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