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コエヲタヨリニ 一が消えて零が生まれて 前編

*あみそ組さんのゲーム「コエヲタヨリニ」の二次小説です。主人公が完全オリジナル。オリキャラ多数登場。いろいろ捏造。

 僕はちょっと変わった子どもだったと思う。
『ねえねえ、おねえちゃん。どうしてにんげんはことばをはなすの? なんでおおくのことばをもってるの? うちゅうじんはどんなことばではなすの?』
 物心ついた時から僕は言葉に疑問を持っていた。なぜ、人間は多くの言語を持つのか。どうして人間だけ言葉を話すのか。本当に人間しか言葉を持たないのか。
 姉の白衣の裾を引きながら尋ねる僕に、姉は笑いながら頭を撫でて答えた。
『人類はね、原型であるホモサピエンスが各地に離散してその土地に馴染むために言語を獲得したんだ。言葉は人間だけが持つとされているのは、新たな言語を生み出し理解する能力を持ち合わせているからだ。これは脳の構造と大きく関わってくる。宇宙人の話す言語は未だ解明されてないけど、どんな言葉を使っているんだろうね。楽しみだ』
 僕の姉、国木田彩音はとても変わっていた。
『適当な数字を言ってくれますか? 九百十一……ふうん。素数ときましたか。ああ、こちらの話です。書類の上から九百十一枚目はかぐやの打ち上げの弾道計算か。王道中の王道だ。相対性理論といえば双子のパラドックスですし。あ、でも、これ抜けがありますよ。この数式をこうすると誤差が0.1%に縮まります。それで、書類の下から九百十一枚目はミスオハラの出身地と言語と習俗を基に作り上げる人工知能計画と。ああ、これもいくつか修正箇所あります。まずミスオハラはジョージア州ではなくサウスカロライナ出身です。発音が微妙に違います。次に彼女はチェロキー族の血が入っていますが、彼等の暮らしを彼女は知りませんね。なぜ? 返答がどれもテンプレートなものばかりなんですよ。それに彼女の両親はプロテスタントで牧師をやっています。あと、車椅子で生活しているとのことですが、両足はあるのですか? 医師のカルテによれば幻肢痛に悩まされているとありますが。となると、この計画書は練り直さないといけませんね』
 姉さんに専門外は存在しないと言われるほどありとあらゆる分野に精通していて、姉さんが十歳になる頃には博士と呼ばれていた。
 僕が幼稚園に入る前は父さんと母さんの職場の託児所で預けられていた。そこには当然ながら絵本やおもちゃ、小学生が読むような小説まであった。
『ああ、それでいうならAIは人間が新たに生み出した生命、脳の一種と言えるね』
『えーあい?』
 十二歳の子どもが持つには大きいパソコンを膝に乗せて指を踊らせている姉さんの隣で絵本を読んでいると、父さんと母さんがやってきた。
『僕たちのパソコンや携帯やタブレットの中にいるパートナーだ』
『私たちの生活を支えてくれるのよ』
『へえ! そうなんだ! すごいね!』
 姉さんの隣を父さんが、僕の隣を母さんが座ってきて、二人は僕たちの頭を撫でながら他愛のない話や脈絡のない話に付き合ってくれた。
 AIからおしゃべりロボ、ELIZA、来談者中心療法、人間性心理学、マズロー、アドラー、フロイト、ユング、グノーシス、エレウシスの秘儀、オルペウス教、終末論、ピタゴラス教団、ピタゴラス音律、ゼノンのパラドックス、三分損益法、史記、司馬遷、ギリシャ神話、アトス山、東方正教などなど。一般的な家族が話すには奇抜で、二歳の子どもに聞かせるには不向きな会話を僕は楽しんでいた。まあ、子どもだったから内容は分からなくても楽しそうな雰囲気を感じ取ってニコニコしてただけだけど。まあ、落書き帳にはそれらの単語がズラリと書き殴られていたけどね。
『所長、副所長。お時間です』
『おっともうそんな時間か』
『あっという間だったね。じゃ、私達はお仕事に行ってくるわ』
『いってらっしゃい』
長い黒髪を一つに結んだ女の人__のちに僕の母親代わりとなる月さんが、母さんと父さんを呼び出した。父さんと母さんは名残惜しそうに僕の頭を撫でて離れて、姉さんは手をひらひらと振って離れた。
『日比谷さん、生未をお願いします』
『ええ、分かりました。相川博士』
 父さんと母さんは国立人工生命電子情報研究所の所長と副所長で、姉さんは並外れた頭脳を国に買われて博士になった。
『生未くん今日は何して遊ぶ?』
『おせろ!』
『黒と白、どっちにする?』
『くろ!』
 三人が働いている間は月さんや他の職員が僕の面倒を見てくれた。一緒に遊んでくれたり本を読んでくれたりしてくれた。
 仕事が終わると車に乗って家に帰る。時間帯は夕方五時か六時ぐらいかな。運転する母さんに『今日の晩御飯は何にする?』に聞かれて今思うと手間のかかる料理ばかり答えてたな。
『ぼく、ビーフシチューとココアがいい!』
『私はカシューナッツたっぷり八宝菜』
『お、意見が分かれたなあ。二人ともどうする?』
『おとうさんとおかあさんは?』
『メインディッシュは何にするの?』
『そうねえ。私はパン粥がいいわ。龍也さん、貴方は?』
『僕は牛肉のセロリ炒めと柿餅が食べたいな』
『わかれちゃった……どうしよう……』
『もう全部にしちゃおうよ。別々の日にするのめんどい』
 うむむ……と唸る僕の悩みを姉さんは添え物のパセリかミントをどけるように一蹴した。
『それは彩音の都合だろう全く……』
『まあまあ、分担して作りましょう。私はビーフシチューとパン粥と柿餅を、龍也さんはカシューナッツ入り八宝菜と牛肉のセロリ炒め。これでどう?』
『そんなのダメだ。君はビーフシチューを作ってくれ。他は僕がやる』
『でも、私の手作りじゃないと満足しないでしょう?』
『それはそうだが……』
『龍也さん』
『結依』
 見つめ合う二人に、まだ小さかった僕はニコニコ笑ってて、恋愛というものを知りつつあった姉さんが渋柿を食べたような顔を浮かべてたよ。
『あーはいはい。そういうのいいから。で、柿餅だっけ。柿餅とココアは私がや』
『『ダメ。彩音に料理をやらせたら死人が出る』』
『実の娘にそこまで言う? ねえ、生未。お母さんとお父さんがお姉ちゃんをいじめてくるんだけど。ねえ、私の料理ってそんなに酷い?』
『うーんと、うちゅうじんのいぶくろみたい!』
『おお、生未。お前もか……お前まで私の料理を貶すか』
 シクシクとわざとらしく泣き真似をする姉さんだが、二歳の僕でもウソと分かるからスルーした。
『認めろ彩音。お前の味方はいないぞ。っと、家に着いた』
 赤煉瓦の壁、焦げ茶色の屋根、庭付き車庫付きの一軒家__今はもう無い僕の家。十八年間生まれ育って暮らしてきたあの家。今でも鮮明に思い出せる。家の前まで着いたら真っ先に飛び出して、父さんか母さんに扉を開けるようにねだってーー。
『さあ、家に帰ったらすることは?』
『おてあらいとうがい!』
『間違えて飲み込まないでよ』
『もうそんなミスしないもん!』
『どうだが』
『もー! おねえちゃんひどいぃ!』
 膨れる僕の頭を撫でる母さんの手は大きくてあたたかくて僕のモヤモヤを消し去ってくれた。
『ふふふ。本当に生未が好きなのね』
『んー、蜂蜜レモンとおんなじぐらい』
『素直じゃないわね』
『やめて。髪乱れる』
 そう言っているくせに髪ではなくメガネを外す姉さんとニコニコしている母さんを尻目に、僕は父さんの袖を引っ張ってヒソヒソと話していたんだ。
『おとうさん、おねえちゃんはちみつレモンすきなの?』
『ああ。研究の次に好きだと言っていたぞ』
『へえ……』
 幼心にビックリしたよ。ご飯よりも服よりも世間一般のトレンドよりも研究第一な姉にも好きなものがあるなんて、って。
『明日教えてあげるよ。彩音の好きな蜂蜜レモンの作り方を』
『ありがとう! おとうさんだいすき!』
 蜂蜜レモンを作れるようになったら大好きな姉に喜んでもらえる。そう思うと嬉しくて嬉しくてふくらはぎに抱きつく僕を父さんは抱き上げて『二人だけの秘密だ』と小指を出して約束を交わした。
 ガチャン。鍵が回る音に僕は父さんに降ろすよう言って降ろしてもらって玄関の扉を開けて靴を脱いで洗面所に向かって手洗いとうがいをして、リビングで姉さんと一緒に料理がテーブルに並ぶのを待って、それで……。
『『いただきます』』
『いっただっきまーす!』
『いただくよ』
 料理のジャンルはバラバラで、統一感が無かったけど、美味しかったなあ。セロリだけは避けていたけどね……。
 お風呂は姉と一緒に入って寝る前にホットミルクを飲んで家族で川の字になって毛布にくるまって眠って……。
『おやすみなさい。彩音、生未』
『だってさ、生未。おやすみ』
『彩音もな』
『おや、す……』
 こういうことが出来たのって、五歳までだったなあ。それ以降は出来なくなったんだ。


***

 世間一般から見ると僕たちの家は変わっていた。けど、僕は幸せだった。今でもとても幸せだと胸を張って言える。
『かんじもよめるってすげえな!』
『お前、いい奴だよな。俺のこと、知ろうとしてくれて……何も言わないでいてくれて……ありがとう』
 杉本に会って親友になった。あいつはマブだの親友だのしつこく連呼するけど、僕も親友だと思ってる。あいつも僕の事情を知っている。全てじゃないけど。それでも黙っていてくれる。僕の嘘に付き合ってくれる。親友を口実にしない優しい奴なんだ。だから、僕に何かあったら杉本を頼るといいよ。
『もう百人一首を覚えたの? しかも、意味まで調べるなんて……すごいわね』
『え、もう解いちゃったの? 連立方程式。日本の文科省が定めた教育レベル、中等部なのに? 文系少年って絶対ウソでしょ。あんた両党じゃない』
『君ってさ本当に黒子なのか主人公なのか分かんないよね。顔じゃなくて存在感が』
 姉さんの親友である楓さんやソーニャや辻村という友人達がいて、先輩や後輩や先生や近所の人たちがいて楽しかった。
 僕は人にも環境にも恵まれていた。いろんな人に愛し愛され生きてきたから。それでもやっぱり寂しいんだ。別れを繰り返して成人したのに、まだ慣れないんだ。日常に溶け込めてくれないんだ。

ーー姉さんが亡くなってから八年も経つのに。

 生温い世界で無敵感と万能感に浸って生きてきた僕はいつも通りが永遠に続くと信じて疑わなかった。
『ゴホゴホっ。ゲホッゴホッ』
『ねえさん、だいじょうぶ? ハチミツレモンのむ?』
『ん、ありがと……あー、生未の作る蜂蜜レモンはやっぱり美味しいわ』
 姉が長い長い風邪を引くまでは。
『まだなおらないの?』
『あー……季節風邪とダブルブッキングしたみたい』
 それが訣れの始まりだと知らず。
『はい! おじや! たべて!』
『ありがとう。もらうね』
 無知で世間知らずな僕は笑って過ごしていた。


***


 姉さんが癌に罹ったのを知ったのは七歳の頃だった。
 小学校一年生の時だったかな。学校が終わってすぐに病院に向かったんだ。
『姉さんいつになったら風邪治るんだろ』
 難しい風邪にかかって退院できるのは早くて二週間か遅くて一ヶ月と聞かされていたため、毎日蜂蜜レモンを作って持ってきてたんだ。姉さんが早く治るのを祈ってね。
『めんかいしゃ……ぜつ?』
 この時にはある程度漢字は読めていたからね。紫色のランドセルから辞書を取り出して意味を調べたんだ。面会謝絶。直接に対面したいという要望を断ること。面会の申し入れを謝絶、断ること。つまり姉さんに会って話をするのが出来ないということ…… それが子供ながらによくないモノだと感じ取った僕は看護師に蜂蜜レモンを預けてもらってトボトボと病院の入り口まで向かった。
『……先生、彩音の様子は?』
 その道中で母さんの声が聞こえた瞬間、僕は足を止めた。母さんも見舞いに来ていたのか。先生と話をしているのか。それにしては声が昏い。いつもの朗らかな母さんとは想像がつかない声色に僕は気になって扉に耳を当てた。
『今のままでは彩音さんは死んでしまいます。抗がん剤治療もせずによく保った方だと思います』
『そうする以外に彩音が助かる道はない。そういうこと、ですよね』
 父さんの声も聞こえた。いつも冷静で落ち着いた父にしては珍しく沈痛で重苦しい声色だった。いや、それよりも理解が追いつかない言葉が僕の頭を真っ白にさせた。
(姉さんが死ぬ? 抗がん剤治療?)
 あの姉が、周囲を震撼させるほどの頭脳を持った姉が、刑事コロンボみたいに飄々として人を煙に撒くのが上手くて憎まれ口や恨み言を言われても総無視する胆力を持った姉が、死ぬ? なにで? ……がん? がんってなんだ。それのせいで姉は死ぬのか。
『はい……。レベルIIとはいえ、彼女を蝕んでいるがん細胞はとても強力です。今すぐに手を施さないと……』
『分かり、ました。抗がん剤治療を始めて、くださ』
『ガンってなに?』
 居ても立っても居られず扉を開けて部屋に突入した。
『生未!?』と、驚く母さん。
『……話、聞いていたのか』と、目を伏せる父さん。
 そんな二人に構うことなく僕は問い詰める。
『ねえ、母さん、父さん。ガンってなに? 姉さんが入院してるのガンのせいなの?』
『ああ……そうだ』
『龍也さん!!』
『結依。生未も当事者だ。この子を遠ざけるのは生未に対する侮辱だ。……守りたい気持ちは分かる。それでもな、僕はこうなる時がくると思っていた。こうして聞いてしまったのなら答えるのが道理だろう』
『だけど……。いいえ、そうね。隠しても隠しても秘密はいずれ暴かれるもの。生未にはとても辛い話だけど……』
 二人の悲痛な表情は心臓の鼓動を加速させた。逃げ出したいけど、二人は僕に向き合おうとしてくれる。だったら、逃げちゃダメだ。ちゃんと聞かないと。姉さんの身に起きていることを。
 瞬間、けたたましい音が部屋中に響いた。
『どうした?』
『五〇三号室の国木田さんが、痛みを訴え始めて! 今すぐ鎮痛剤を!』
 五〇三号室。国木田。僕と父さんと母さんがいつも見舞いに来る病室。その住人が痛がっている。
 理解した瞬間、部屋を飛び出して五〇三号室に向かった。背後から両親の声が聞こえるが、構うものか。扉を開けて『姉さん!』と呼びかけた瞬間、背筋を突き刺す呻き声に足を止めた。
『あ"……ぐっ、っう"、はあ"っ……っ、うぅ……』
『ね、ねえ、さん……』
 呼びかけてみたけど返事はない。聞いたことのない声を絞り上げてシーツを握りしめる姉さんに、恐怖が膨れ上がって震え出した。
『国木田さん今から鎮痛剤を打ちます! 手はこちらに!』
『少しチクっとしますよ』
 テキパキと注射器や駆血帯を用意して姉さんの腕に巻いて刺す医師や看護師を見て我に返った。よたよたと歩きながら姉さんのところに近づく。
『姉さん』
『え、生未? って、あー……』
 ちょっと目を丸くした後、視線を彷徨わせた姉さんは頭を掻いた。
『ごめんなさい彩音。だけど』
『これ以上はもう無理だ』
 追いついてきた母さんと父さんは僕の肩に手を添えて謝った。二人が謝る必要なんて無いのに。
 姉さんは右手を緩く横に振った後、深く息を吐いた。
『なるほど……もうバレちゃったか。私が癌にかかってること』
『ガン?』
 姉を苦しめているソレに眉を寄せると姉さんが首をかきながら説明してくれた。
『あー、分かりやすく言うと悪い細胞、がん細胞のこと。で、発症する箇所によって呼び名が変わってくるの。私は血液中だから、白血病。でも、がん細胞の仕業だからみんなガンって呼んでるの』
『姉さん死なないよね……?』
『どうだろうなあ。こればっかりは分かんないや』
『姉さん!!』
『でも、死にたくないからねー。やりたいことまだ残ってるし。生未の成人式見ておきたいし。まあ、頑張ってみるよ』
 今でも脳裏に鮮明に焼きつく姉さんの笑顔を僕は信じていた。姉さんならガンに勝てる、頑張ってみると言ってるから報われるはずだと。
 頑張りが必ず報われるのはフィクションの中だけだと知らず、姉の強がりを疑うことなく僕はいつもの姉さんだと安心していた。
 長い長い闘病の始まりになると知らずに。


***

 それから長きに渡る抗がん剤治療が始まった。
『うっ……えっ、っうっ、ごほっ、げほっ……』
 姉は抗がん剤による副作用で吐くようになり蜂蜜レモンすらも飲めないと嘆いていた。そして髪すらも抜け落ちていき、帽子を被るようになった。
『さっぱり気分転換になって、いいぐらいだよ……だからそんな顔する必要ない』と、肩をすくめて笑みを浮かべていた。頭を撫でるその手は小さくて細かった。
 父さんは姉さんの研究の手伝いをしていた。母さんは患者向けの料理を作っていた。病院は研究所の近くだったから所長権限で研究所の職員や医師達に協力してもらったんだ。
 でも、僕だけはまだ子供で、技術も知識も全く無いから、姉さんと他愛のない話をしたり側にいることしか出来なかった。
『今日ね、休み時間に昌也や朴達と一緒にペンイチギ(こま回し)やユンノリ(すごろく)をしたんだ。それで朴君の歌ってるトッケビの歌を教えてもらったんだ』
『ほうほう。じゃあ、帰ったらこのレコーダーに歌を吹き込んでもらえるかな』と、ボイスレコーダーを差し出してきた。
『え、いいの? 僕そんなに上手くないよ?』
『研究のために必要なんだ。歌ってくれ』
『姉さんって研究好きだよね』
『まあね』
『……いつになったら終わるの』
『生きていられるうちに終わらせておきたいな』
『ねえ、姉さん……僕は姉さんのや』
 言葉は続かなかった。姉さんがいきなり咳をしたからだ。ゴボゴボッと、排水口から水が溢れ出すような咳。すぐにナースコールを鳴らし、看護師を呼ぶ。もう慣れてしまったものだ。姉の異変への対処も、姉の要望通りにここから離れるための帰り支度も。
 それでも姉の病室を抜けて病院を出るとじくじくと胸が痛み出すんだ。どうして姉さんは僕を追い出すんだろう。そんなに僕は頼りないんだろうか。もう異変だって慣れた。怖くはない。気味悪かったりしない。なのに、なんで……。
 トボトボと歩いていると目の前に大きな影が差した。
『ん? どうしたの生未君』
 青色の縦線が入った白シャツ、その襟に結ばれた薄花色のタイを揺らして首を傾げる赤茶色の髪の女性に名前を呼ばれて、思わず呼んだ。
『楓さん……』
『こんな顔をして……せっかくの素敵な顔が台無しよ』
 しゃがんで僕の頭を撫でてくれる楓さんに姉さんの面影を重ねてしまい、思わず胸に飛び込んだ。
『生未君?』
『楓さん……僕、僕……』
 八歳が抱えるにはこの状況は大きすぎて重すぎて誰かにぶつけたかった。多忙な両親や月さんに心配をかけたくなくて、杉本達を怖がらせたくなくて、ずっと抱えていた不安や恐怖を楓さんにぶちまけた。
 自分は姉の役に立っているのか、姉の支えになれているのか、分からない。いつになったらこの状態が終わるのか。姉の病気は本当に治るのか。怖い。怖い。
 いろんなことを言っていたような気がするけど、僕が覚えている限りではこう話していたよ。
 楓さんは考え込むような仕草で黙った後、ゆっくりと口を開いた。
『……私は医者でも専門家でもないから彩音の病を治せるのか分からないし。生未君と同じ気持ちよ。でも、分かることは一つあるわ』
 そっと自分の胸と僕の胸に手を当てた楓さんは春の日差しのような笑みを浮かべた。
『それはね、病気になった患者は誰かが、それこそ家族や友人が側にいると安心するのよ』
 風邪引いた時とかね、と言われて僕は母さんや父さん、姉さんに看病してもらった時や杉本達が来てくれた時の温もりと心細さが溶けてく感覚を思い出して目を見開いた。そしてまさか、と思った。姉さんも寂しいと、心細いと思っているのか? その時にそばにいて欲しいと思っている人は……。
 僕の憶測を察したのか、楓さんは笑みを深くして僕の頬を両手で包んだ。
『彩音が龍也さんや結依さん、生未君や月さんや私以外の人間の顔を人間として認識できないのは知ってるよね』
『うん……』
 姉は変わっていた。それは天才故の奇行とかそんなものではなく、根本から変わっていた。姉さんは特定の人物以外の人間の顔を認識できないんだ。相貌失認とかじゃない。それだったら僕達の顔も認識出来ない。けど、認識出来ている。僕達以外の他人の顔が姉さんの目には人間として映らないんだ。
 姉さん曰く他人の顔がアバターかアイコンか3Dモデルに見えていて、僕達を人間として認識できるのは両親は自分を産んでくれたから・月博士と楓は医学という別分野の知識を持ってきてくれたから・生未は機微というものを教えてくれたから、だそう。
『それでも彩音は私に来てほしいとも言わないし。たまに話をしてもああして欲しいこうして欲しいなんて言われたことないわ。でも、それを生未君にだけするのは……血の繋がりだけじゃなくて、貴方自身を特別だと思っているから』
『僕自身を?』
『彩音が人間になったのは生未君のおかげなの。だから、自信を持って』
 そう言われたが、この時の僕にはよく分からず、ただ姉さんの親友である楓さんが言うのならと頷いた。
(姉さんが僕を特別に思っているのかどうか分からないけど、もし本当に僕がそばにいることで姉さんが安心するなら僕は……)
 最期まで姉さんの側に居続ける。姉さんを支えてやる。僕が姉さんを助ける番なんだ。
 無知な僕は姉さんに待ち受ける残酷な仕打ちを知らずに大層ご立派な決意を固めて奮起していた。
 己と交わした約束を破ることを知らず。


***


 抗がん剤治療を繰り返していくうちに寛解期に入り、外出許可を得て病院に戻るまでの間は家で過ごしていた。言葉通り家から一歩も出ることなく。
『はい、姉さん。蜂蜜レモン』
『ん。ありがとう』
 姉さんは元々体力は無い方だったけど、病気や抗がん剤治療の影響で外に出て数歩歩くだけでも倒れてしまうようになったんだ。
『あー、やっぱ実家が落ち着くわ』
 ゴロンとリビングの床に寝転んでペンを持つ姉さんに僕は呆れながら近づいた。
『帰ってくるなり地図とスケッチブックと紙を広げて……またなにか思いついたの?』
『んー? あー、あの町一帯の電線と住宅とアンテナの位置関係と地盤と影響と……まあ、その他諸々』と、喋りながら数式を紙に書いて白を黒で埋めていく。何が何やらさっぱりだ。今の僕でも二次関数でやっとだからやっぱり分からない。
『マンション一軒、一軒家四十五軒、アンテナの数五十個、電柱三十本、電線九十本。地形はこうなっていて、電柱はここら辺に建ててあって……うわ。ここ震度三の地震来たらあちこち倒壊するな……はあ、メンテナンスぐらいやれよ』
『その割には声がちょっと楽しそうだね』
『電線のおかげで強化できるところ見つかったからね』
『ねえ、姉さんはなんの研究をしてるの?』
 ずっと前から気になっていた。姉の周りにはいつも脳科学や生物学やプログラミング言語の本やら資料やらが門のように並んでいた。自身を取り囲む複雑難解なそれらを絵本かマンガのように楽しく目を通してはパソコンに入力して何かを計算する姉さんに疑問をぶつけると、姉さんは顔を上げて口を開いた。
『それはね……ひ・み・つ』
『ええ!? 姉さんのケチ!』
『はっはっはっ』
 わざとらしい笑いに頬を膨らませて肩を揺さぶるとパシャっとシャッター音がした。
 振り向くと母さんがカメラを構えて僕たちを見つめていた。
『ふふっ。本当に二人とも仲が良いわね』
『ケンカはするけどね』
『それもかわいいものじゃない。プリンを食べられたとかココアを飲んでしまったとか。私からすれば微笑ましいものばかりよ』
 言葉通りに微笑む母さんに、なんだか恥ずかしくなって父さんの方を見ると父さんも口元に笑みを浮かべて頷いていた。
『僕も同意見だ』
『父さんまで……』
 姉とは十歳ほど年齢が離れているため、ケンカらしいケンカなんて姉が白血病に罹る前でしかなく、そんな昔のことを言われても困るだけだ。
 すると、母さんは丸めた右手を左手のひらに乗せて名案と言わんばかりにこんなことを言った。
『あ、そうだわ! 折角全員揃っているんだし。写真を撮りましょう!』
『いきなりどうしてそうなるの?』
 眉を寄せながら姉の顔を見る。イヤそうに、もしくはどうでもよさそうにしてるのかと思いきやペンを回しながら『いいよ』と返した。
『こうして撮れる機会は今しかないだろうし』
『あ……』
 言われてやっと察した。父さんと母さんは姉さんとこの家で過ごせる瞬間を、このひと時を写真にして残しておきたいのだと。遠くの未来で思い出話として語れるように。
『生未こっち』
『あ、うん』
 寝そべる姉さんの隣に招かれて正座をしてピースをする。僕と姉さんの後ろ、その間に父さんが座っていて、三脚立てとカメラのセットを終えた母さんが父さんの隣に座って父さんと腕を組んでいた。
『はい、ポーズ!』
 あれが最後の家族全員で撮れた写真。
 もう二度と撮ることのない思い出の記録。
 その写真を見る勇気は未だ無い。

 どんなに頑張っても頑張っても病は容赦なく姉さんの命を削っていく。


 抗がん剤治療だけでは手遅れだ。誰の目にも明らかなぐらい。そう思った医師は造血幹細胞移植を勧めた。
 造血幹細胞移植というのは、要するに三時間も時間をかけて血液の中にある細胞を姉さんに移植して治癒力を上げていくってことだ。その当時は最新の治療技術で、HALが一致してなくても半分か三分の一でもマッチングすれば出来る治療法で、同時に導入段階だったから最初の患者は姉さんだったんだ。
『こんなのモルモットみたいだよ! 姉さん、やっぱり骨髄移植にしよう! こんなの危ない』
『先生、お願いします。遠慮せずやってください』
『姉さん!?』
 躊躇いもなく頷いた姉に正気を疑う眼差しと叫びを向けたが、姉の瞳には理性と知性の光が宿っていた。正気だと分かってしまい、こんな時でも姉は姉なのだと思い知らされて少しばかり怖くなった。
『生未。骨髄移植じゃ間に合わない。HALが完全一致するドナーを見つけるのに数年はかかる。それじゃあ私の身体がもたない。ですよね先生』
『はい……抗がん剤だけでは、彩音さんのがん細胞を減らすのは、大変難しいかと』
『私がもう一年だけでも生きられるためにはコレしかないんだ。分かってくれ』
 懇願する眼差しで言われたら頷く以外に何が出来るだろう。
 項垂れる僕の頭を姉さんは撫でてくれた。前よりも細くなった手で。
 それから程なくして造血幹細胞移植が始まった。
 父さんや母さんだけでなく、僕も入院して三時間ぐらい管と大きな機械に拘束されていたよ。まあ、その間はレンタルビデオ屋で借りてきた映画とか観て過ごしていたけどね。姉さん? 姉さんは寝ていたよ。ぐっすりとね。
 造血幹細胞移植が終わった後かな。退院前日に姉さんの病室に来たんだ。
 病衣の上に白衣を羽織っている姉さんの両腕には管が沢山ついていて、その先の袋が五つもぶら下がっていた。足元にも管が生えていた。顔色は青白く頬は痩せこけている。誰が見ても重症なのに、姉さんは生き生きとした様子でパソコンのキーボードを踊らせていた。
『姉さん何を作ってるの?』
『ふふっ。人間、だよ』
『人間? 僕にはそうは見えないよ』
 見たことないコード列、複雑怪奇な英数字……。今の僕にはプログラミング言語だと分かるそれらを姉は積み木で城を建てるように鼻歌を歌いながら組み立てていた。
『出来上がればいずれそう思うよ』と、鈴を鳴らすように笑う姉は僕の耳元に顔を寄せた。
『その時はお前にプレゼントするよ』
 合理的で捻くれた姉からその単語が直接出たことに驚いたが、姉の十数年にも及ぶ研究の集大成が自分の元に渡る。そう考えただけで胸が弾んだ。
『出来上がったら教えてね』
『ああ。必ず』
 瞳を細めて笑う姉は夜の銀色の三日月みたいに妖しく儚く輝いていた。

 
 前よりも減ったけど、姉さんは外出許可をもらって家に帰れるようになった。父さんの時と母さんの時と僕の時で、三回ぐらい帰れたんだ。帰るたびに姉さんは何故か外に出たいとリクエストして、繁華街とか人通りの多い場所を避けて空気の美味しい場所に旅行に行った。
 一回目は江ノ島。姉さんが中学の修学旅行で行くはずだった場所。鳶に餌をやるの大変だったけど、珍しい体験ができて良かった。それに海鮮丼美味しかったしまた食べに行きたいよ。
 二回目は山形。父さんの生まれ故郷。お蕎麦が美味しくて、温泉とか気持ちよかったな……。父さんの実家の紅花摘み手伝ったけど楽しかったなあ。
 三回目は浜松。母さんの生まれ故郷。あの時に確かサザエのワタの美味しさに目覚めたんだっけ。姉さんが「将来酒豪になれそうね」ってぶどうジュースとジンジャーエールで割ったジュースを飲みながら笑っていたな。
 とても楽しかった。もう二度と無いたくさんの思い出。これからも姉さんや母さんや父さんと一緒に築き上げていきたい。もっといろんなところに行って楽しみたかった。僕の願いはそれだけだった。
 けれど、現実はいとも僕達の頑張りを裏切る。上手くいっていたつもりが逆風が吹いて真っ逆さまに落ちていく。そんな経験を二度したはずなのに、僕は愚かにも忘れていた。
『我々としては出来る限り手を尽くしました……ですが、もう打てる手は無いかと』
『私に、残された、時間は?』
『……半年、です』
 二〇一〇年十月。僕が小学六年生、姉が二十一歳の時に余命宣告がされた。


***

 必死の延命も献身も叶わず、姉さんは末期癌にかかった。起きていられる時間が徐々に少なくなって会話も殆ど出来なくなっていた。
『姉さん、あのね、卒業式で答辞をすることになったんだ』
 姉は答えない。呼吸器からか細い呼吸をこぼしている。
『楓さんは大学院に行って博士号を取るんだって。サイバネティクス? とメタバース? を組み合わせた医療技術を開発研究したいって』
 姉の瞳は開かない。何も映してくれない。
『僕、来月には中学生になるんだよ』
 病室に響くのは僕の声と心電図と呼吸器だけ。姉さんの声も表情も動きも全く無い。童話の白雪姫のように眠り続けている。
 その姿に僕は怖くなった。姉が今までの姉じゃいられなくなっている。話をしても何も返してくれない。末期癌だから当然の事なのに感情では受け止めきれなかった。
『……今日はこれぐらいにするね。じゃあ』
 怖くて怖くて見ていたくなくて逃げた。
 姉の苦しみから闘いから目を逸らして。
 姉の声に耳を塞いで想いを聞かないようにして。
 最期に会ったのは僕の誕生日、四月一日。姉さんが起きれるようになった日だけ。
『はい、いくみ、ぷれぜんと』
『これは……スマートフォン?』
『パスワードなに?』
『それはね……秘密』
 緩く首を振る姉さんになんだかイラついてキツい口調で返した。
『なにそれ。この期に及んでまだ秘密主義? 子供扱いしないでよ』
『ごめんごめん。じゃあ、ヒントを一つあげるよ』
 呼吸器を僅かにずらして姉さんはゆっくりと発言した。
『一は常にゼロの隣にいる。以上だ』
『姉さんはヒントの意味を辞書で引いた方がいいんじゃない?』
 ジトっと半目で睨むも姉さんは堪えた様子もなく狐のように口角を上げて「はっはっ」とわざらしい笑い声を上げた。
 教える気も答える気もないことに僕はため息を吐き、椅子から立ち上がってスマートフォンが入った箱を鞄に入れて踵を扉の方へ返した。
『とにかく今すぐにはロック解除出来ないのは分かったよ。全く、プレゼントがただの入れ物だなんて……』
 ぶつくさ文句を言いながら退室する僕の背中を姉はどんな目で見ていたんだろう。挨拶とこんな短い会話だけ交わしてさっさと帰っていく弟をどう思っていたんだろう。
 家に帰った後、すぐに後悔した。なんであんな素っ気ない態度を取ったんだろうって。出かける前はたくさん話をしようって決めたのにどうしてそうなるんだろう。悪いのは姉さんを蝕む病気であって、姉さんじゃないのに。姉さんだって好きでこんな状態になったわけじゃないのに、なんであんな態度を取ってしまったんだろう。悔やんでも悔やみきれないよ。
(姉さんに謝ろう。今まで酷いことをしてごめんなさいって。それで蜂蜜レモンを渡そう。気休めにしかならないけど、それでも無いよりはマシだ)
 なんて、淡い空想を描いて蜂蜜レモンを作りにかかった僕は今にも千切れそうな蜘蛛の糸にしがみついていた。
 姉さんに謝って面会時間が終わるまでたくさんお喋りをする。
 そんな明日は永遠に来なかった。


 朝の五時、両親に叩き起こされた僕は蜂蜜レモンを膝に乗せて車に乗った。車窓に差し込む朝日が眩しいと欠伸をしながら呑気に構えていた。
『姉さん……?』
 ピーと鳴り続ける心電図や目を開かない姉さんを見て、心臓が嫌な音を立てた。
『ご臨終です』
 医師の一言で全てを悟った僕は蜂蜜レモンを落とした。こぼれ落ちた液体は僕の足を濡らした。熱いはずなのに何故か冷たく感じた。


 国木田彩音。二十一歳。二〇一一年四月二日死亡。

 僕は姉さんに「ごめんなさい」を言えないまま、姉さんがゼロになった姿を呆然と見つめていた。

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