破綻と逸脱〜あそびのレジスタンス

これまで、あそびという振舞いについて考えてきた先人たちは多くいます。「ホモルーデンス(遊ぶ人)」を著したヨハン・ホイジンガや「遊びと人間」のロジェ・カイヨワといった古典にはじまり、「人間はなぜ遊ぶか」のマイケル.J.エリスや、「クリエイティビティ」のチクセントミハイ、「遊びと発達の心理学」のジャン・ピアジェなど、枚挙にいとまがない程です。近年でも「遊びが学びに欠かせないわけ」のピーター・グレイや「プレイ・マターズ 遊び心の哲学」のミゲル・シカールなど目の離せない議論が尽きません。

なぜ人はここまで遊びにこころを奪われるのか?と考えると、私は遊びが人間の根幹と結びついているためだと考えています。

この事を振り返るためにまずは先史時代まで遡ってみましょう。原始的な社会において人類は種を繋いでいくために食物を獲得し、外敵から守られる安全な住まいを保持していました。体温を奪われないために衣類を獲得したグループも居るかも知れませんが、これは場合によっては住居の一部と捉えることもできます。動物としての人間は単体ではそれほど強い存在ではありません。動きは鈍いし、力や牙なども大したものは持っていません。そこで言語などのコミュニケーション能力の発達という知的な力を用いて他の種と戦ってきました。それはやがて社会や組織というものを形成し、蜂や蟻のように集団として力を発揮し他の種に対抗することになりました。

そうこうしているうちに社会を営む人間は、秩序というものによって未来をコントロールする力を手にします。秩序とは物事の正しい手続きや順序のことですが、これを獲得すると、未来が予測できるようになります。自然界においては未来を予測できることは圧倒的な力になります。逆に最大の危険は無秩序の恐怖、予測の不可能さと言えるかもしれません。社会生活を営む人間にとっては、未来予測の正確さや強さは、そのまま社会内部における権力とも結びつきます。

権力を持つためには、未来を正確に予測できる力が不可欠です。日本における初期の権力者として有名な卑弥呼は、巫女として未来を予測できたと言われています。現在から見ればオカルトのように感じるかもしれませんが、しかしこの能力は、もしかしたら科学的な予測の技術を用いていたのかもしれません。例えば彼女が天文学的な知識や暦の読み解き方などに秀でていたとすれば、民衆には全く予測がつかなかった天候や飢饉を見通すこともできたでしょう。そしてその能力に基づいて権力の座につくことになった、という筋書きです。

時代は一気に下り、近代においても、権力と未来予測は密接に繋がっています。人類は自然の恵みを享受しながら生きていますが、それら資源の適切な分配を巡り、社会の中でのあらゆる愚かな争いも経験してきました。これらの争いを調停する機能として、秩序のコントロールをもたらすために様々な政治の形態を考案してきました。〇〇主義といったアイデアを運用しながら秩序を保つ挑戦を繰り返してきました。

しかし、ご存知の通り社会を取り巻く状況は、実は「予測通り」にはいかない要因も数多く存在しています。地球環境という問題に限っても、二酸化炭素量については人間の抑制的な工業活動によってコントロールできる部分もありますが、地殻変動に起因する地震や、火山の噴火といった地学的な活動は人間の活動とはなんら無関係に発生します。いまのところこれらは人類がコントロールすることはできません。イナゴの大発生やウィルスルによるパンデミックなども同様に人間のコントロールの外側にそのたずなは握られています。予測のつかなさに対して数値的に捉えたものが、良く知られた「リスク」という言葉です。予測のつかなさを評価し、事前に価値を計り、いみじくも商品として販売しているのが「保険」というものの実体です。

そこで唐突ですが、実は人間はこうした「予測のつかなさ」と上手く付き合うために持っている能力があります。それが「遊び」というものの実体ではないかと、私は考えています。そして遊びを成り立たせている、予測不可能な未来に向き合う能力こそが「創造性」と言えます。

創造性や遊びは、予測のつかない状況に瞬間的に秩序を与え、人間が捉えやすくしてみる試みである、と考えることができます。その秩序は瞬間的に発生するものなので、よく練られた強固なものでは無いかもしれませんが、とりあえず無秩序を何とか手なずけようと与えた仮の秩序です。
遊びと創造性は同じものではなく、密接に結びついています。創造性は、初めて目にする状況に対してそれらを洞察し、法則を見いだし、次の一手をひねり出す力、その時絞り出す勇気が一体となったものです。囲碁や将棋などでもこれまで誰も考えつかなかった一手を打つ時に「創造的な一手」と言うことがあるでしょう。このとき人は、その一手の何に創造性を見いだしているかというと、上記のような説明になるのではないでしょうか?字義通りに言えば、囲碁や将棋の一手は、美術の彫刻や絵画のような創造性とかけ離れているように見えます。超絶技巧が駆使されている訳でもありませんし、ルールに従った順列組み合わせの有限の手のうちの一つを選択したに過ぎません。それでも誰も思いつかなかったその一手を創造的な手と名付けるのが不自然ではないのは、創造性がアーティストだけのものではない、ということを表しています。

遊びとは、その「見た事もない状況」と「それを何とか捉えて筋道を付けようとする創造性」の拮抗した状態を行き来しながら楽しむ姿勢と定義できそうです。秩序が生まれてはそれが崩れて新たな秩序が作り出される。崩れたと思ってそこに出現した残骸が次のステップの礎になる、そうした往来、秩序と渾沌の拮抗のことを遊びと呼称するのが適切なような気がしています。具体的な事例として、まだルールも知らない子供達だけで野球のまね事をしている場面を想像してみます。ピッチャーが投げたボールをバットで打つということまではおおよそ理解しているけれど、打った後どちらに走ればよいのかも分かりません。間違えて三塁側に走ってしまったとしても、彼らの中では、それも良し、ということになってしまうこともあります。塁を回ってホームベースへたどり着くと点が入る、なんてことを知らなくても、何となく塁に人がいる事で高まる緊張感を感じて次のバッターへボールが投げられます。次にヒットが出た時に、サードにいる子どもがどっちに走るのかなんて分からなくても、ゲームは続いていきます。その場でルールがどんどん更新されます。細かなルールの整合性なんて誰も気にせずとも、遊びは続いていきます。

こうした場面では、秩序と無秩序が拮抗しています。ルールそのものに対する疑義も遊びのうちに含まれていると言えますし、また遊びそのものが成り立っている場に対する疑義も提案することが可能です。だれかが「飽ーきた」って言ってバットを急に投げ出してしまう、そんなナンセンスもいつ訪れるとも限らない中、なんとか継ぎはぎの秩序を頼りに、多くの子どもがボールの行方に目を見張っているのです。脆弱な秩序を何とかキープさせるために皆が創造性を発揮しているとも言えるのです。そうした場面はとても豊かで、可能性に溢れた輝かしい場面である、と私は感じます。

実際の子どもの遊びを観察してみると、こうした「ルールにならないようなルール」を常に組替えていく様子が見受けられます。何かの提案とその採用/却下を巡り、状況は目まぐるしく変わっていきます。一つのルールで遊び続けるタイプの遊びもありますが、それだけだと単なる「サービスの利用者」と変わりません。ビデオゲームなどにおいても、新たなルールが作られては消えていく、そうした遊び方が許される「オープンワールド系」*1 のゲームに根強い人気が集中しています。これも、秩序の構築と破綻の綱引き、という遊びの楽しさが、ゲーム空間においても続いていることの理由でしょう。

オープンワールド系のビデオゲームの中では、自分というプレイヤーが放り込まれた世界の中で、限られた資源(アイテムや素材など)を使って自由に行動することができますが、敵から狙われたり体力が無くなってしまったりといった、「対処しなければならない事」から身を守ることからスタートします。それらをこなしていくうちに新たな外的な要件が発生しそれらに対処していくうちに「自らが行いたい目的」がおぼろげながら立ち上っていきます。運命として大いなる物語や設定を与えられ、そのシナリオをなぞるタイプのゲームとは異なります。「何を成すべきか」それを探すことが最大のテーマになります。まるで実際の人生の縮図と言えなくもありません。大きな目的へと近づくだけが楽しみではありません。人は大きな目的にならないような小さなお遣い(ゲーム内ではしばしばクエストと呼ばれます)と戯れているうちに時間が過ぎていきます。そのこと自体が喜びを与えてくれます。

巨大な目標、または壮大な物語に従うのではなく、目の前の小さな秩序を作りだしてはそれらから時に逸脱し、新たな秩序を組み上げていく。
遊びを通じて初めて見るような状況に喜びを持って立ち向かう創造性を身につけることは、見通しのつかない世界に立ち向かう私たちに、絶望から復活する勇気を与え、未来を切り開く力を与えてくれるでしょう。遊びは暇な時に行う余暇ではなく、人が生きることの根幹ですらあると私は考えます。

*1 オープンワールド:ビデオゲームにおいて、ゲームの活動の場が広いマップとして開かれていて、次にどこに移動しても構わないような設定のゲーム。おおよその進行やミッションが与えられる場合もあるが、その通りにシナリオを進めなくても構わないような設計がなされている。

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