DQ11のベロニカの死は、FF7のエアリスのオマージュなのか?

ベロニカは「集大成」だと思う。

どうも、先日やっとDQ11Sを完全クリアした男です。最推しはシルビア姐さん、結婚相手はエマ、一番笑った天空のぱふぱふはグレイグverです。デルカダールに栄光あれー!

さて、今日はひとつのツイートを基に記事を書きます。

これねぇ、「作中で死んだプレイアブルキャラ」という点ではエアリスとベロニカは同じなんです。なんですけど、ベロニカが背負っているのはエアリスの影だけじゃない。ゲームのキャラクターの死に関してはもっと複合的な問題があって、それに対する回答として堀井雄二氏とドラクエスタッフが20年越しに出した答えがベロニカだった、と私は捉えています。ちょっと長い話になりますが、よかったら読んでいってください。

FFもDQも人死にはいくらでも出してきた

こういう言い方をすると身も蓋もありませんが、FF7発売以前を俯瞰してみても両シリーズとも割とカジュアルにキャラクターを殺している作品ではあるのです。

FF2はスポット参戦する仲間キャラクターの多くが死別しますし、他のナンバリングでも自己犠牲枠がいるのはほぼ当たり前。パーティに加わらない脇のキャラクターを含めれば、町ひとつ規模で潰すくらいは朝飯前でやってきます。ワンアクションで最も殺したのは6の世界崩壊でしょうか。
DQは主人公のお父さんたちがぬわーっ!する展開が特に有名ですね。他にも主人公の幼馴染を出始めのシーンから他界させたり、伝令の兵士が息絶えたりと、ザオラルの効かない死は常に描写されています。

しかし、こうした流れの中、ゲームのキャラクターたちはシリーズファンからあることを指摘されるようになっていきます。

「このキャラクターは死ぬ」
「この枠にいるなら安泰」

物語背景の薄いキャラクターや一時参戦するキャラクターは死ぬ、初めて仲間になるキャラクターは大丈夫、パッケージに描かれているキャラクターは安泰。そうしたある種のお約束・不文律が積み重なった結果、キャラクターに対する穿った見方がゲームファンの間で醸成されていくことになっていきます。その流れが加速するとどうなるか。

キャラクターの生死の先読みが露骨にわかりやすくなる
→ 「ストーリーが薄っぺらい」という批判の根拠にされる
→ ゲームのストーリーが評価されなくなる

そうした風潮が生まれてしまうと、「『絶対に死なない』と目されるであろうキャラクターを殺す前例をつくる必要がある」「ストーリーの深みや重厚さを演出するには、プレイヤーから強く感情移入されるであろうキャラクターの死を描くのは必然」と製作者が考えるのはある意味当然だったのではないでしょうか。少なくとも、今の私であれば大いに賛成するところです。

「死」≒「退場」≠「高評価」

こうした風潮が存在する中で97年にFF7が発売され、エアリスは100万台以上のプレステの中で100万回以上死にました。その時には「まさか死ぬと思わなかったキャラクターが亡くなった」というインパクトが先行し、その犠牲を無駄にしないために主人公たちが戦う姿は大いに共感を生みました。
しかし、「これまでの常識であれば途中で生き返って然るべきポジションにいるエアリスが、結局最後まで生き返らなかった」というストーリーは賛否両論で大いに物議を醸し、エアリスは生き返るという都市伝説まで生まれるほどでした。
(その件で冒頭のマラリアさんが制作した動画がこちらになります)

そんな風潮がある中、FF7発売から3年後に発売されたDQ7に、物議を醸すキャラクターが登場します。

彼の名は、キーファ・グラン

ご存知のない方に彼を簡単に紹介すると、
・最序盤から登場する、主人公の幼馴染ポジション&操作可能キャラ
・攻撃力が高く打たれ強い、火力兼壁役(ライアンやハッサンのポジション)
・パッケージにも描かれている
なのに序盤の終わり頃に永久離脱
という、なかなかのインパクトを残して退場したキャラクターです。

私は、彼の存在がドラクエスタッフによる「エアリスというキャラクターの運命に対する『何も殺すことないだろ!離脱するならこれでいいじゃないか!』という解答」だったのではないか?と当時から考えていました。
しかし、キーファの離脱に対するプレイヤーからの評価は散々。今に至ってもエアリスの死とは比べるべくもないほどのくそみそっぷりであり、何かあれば「キーファ種返せ」「種泥棒」だのと論われる始末です。何でもかんでも生き残らせればいいわけではない、逆に生きているのに離脱したからこそこれだけのヘイトを買った、という側面もあるのでしょう。
このキーファというキャラクターに対する評価は、DQ7全体に対する評価にも決して少なくない影響を与えていると、私個人は思います。

この2者はその経緯や生死の差こそあれ、「途中でパーティを抜け、二度と戻らない」という点で共通しています。多くの方はここで「ストーリー上の扱い」や「離脱するための根拠」などを考察するでしょうが、私はもう少し違う切り口でこの2者を語りたいと思います。

それは、「メインキャラクターの持つステータスは、プレイヤーの『成果』である」という側面です。

「育てた手間」が失われる

「情がない」と思われかねないのであまり大きな声で語られない側面ではありますが、キャラクターを戦闘させて経験値を稼ぎ、よい装備を買い与えて育成したキャラクターは、プレイヤーが費やした時間や努力に対する報酬、すなわち「成果」であるといえます。
そんな成果の結晶を、ストーリー展開上強制的に奪い去られるというのはあまりにも無情であり、強い理不尽を感じざるを得ないでしょう。「それがわかっていれば最初から育てなかった」と心の隅で憤(りつつそんなこと言い出せないのでぐっと黙)る人も、相当な数いたに違いありません。

そして皮肉なことに、この種の怒りを招きやすいのはエアリスよりもむしろキーファであったことは想像に難くありません。エアリスは参戦こそ序盤ではありますが、キャラクター性能的には補助・回復へ大きく偏っている&その後に参加するキャラクターがより強力で、永久離脱する頃にはほぼ二軍落ちしているケースが多い、という事情があります。つまり、戦力的にいなくなって困ることは少なかったのです。
対してキーファは上記で挙げた強性能もあり、離脱時点でもパーティの中核を担う存在であるわけです。そんな彼が避けようもなく消失してしまうストレスは、間違いなくエアリスのそれよりも大きくなったことでしょう。

これと類似の事例として挙げたいのは、全くジャンルが違いますがスーパーロボット大戦シリーズです。シリーズのファンの方ならこの時点でピンと来られたのではないでしょうか。そうです、某赤い彗星の彼の話です。

とある超有名ロボットアニメに出てくる某赤い人は、作品を跨ぐごとにその扱いが違うことで有名でした。あるときは主人公の好敵手として、またあるときは主人公勢を助けるエースパイロットとして、またあるときは敵対勢力の総帥として、その立ち位置をくるくると変えているのです。
それはつまり、初見の段階ではゲーム内でそのストーリーをどの程度再現するのかわからない以上、彼は最終的に味方で収まるのか、それとも敵軍のボス格へと寝返るのかわからないということでもあります。歯がゆいことに彼のパイロット性能や操縦機は全体で考えても上位の性能になるため、裏切りを恐れて使わなければ道中が苦しくなり、使わなかったのに結局裏切られなかったということになれば無駄な縛りプレイをしてしまったという顛末になってしまうわけです。
それを踏まえて、いつしか彼の参戦するナンバリング発売に際して、プロデューサーから「今回は裏切りません」と事前告知がなされることが恒例となったのでした。

ちなみに、ストーリー上におけるキャラクターの扱いと告知の手段で失敗した方の例でいうなら、テイルズオブゼスティリア炎上騒動が白眉でしょう。DQ6で喩えるなら、「事前告知でミレーユやバーバラ級の扱いだと思われていたキャラが、実はターニアレベルの扱いだった」って話なんですけど。

そしてベロニカは死んだ

こうして「このゲームはまるで映画のようだ」と持て囃されることがステータスであった時代において、「本当に映画的なストーリーにすれば、プレイヤーの『成果』をロストさせるリスクを負う」というゲームが抱える弱点が露呈してしまいます。
その後はFF、DQ両シリーズにおいて「メインキャラクターの死」はめっきり描写されなくなりました。直近作で言えばFF8において「ミサイル基地でメインキャラクターのうち3名が生死不明になり、短期間パーティから離脱する」などの描写はありましたが、全体のストーリーからすればほんの些細な期間であったためにほとんど印象に残ることもありませんでしたね。DQ8では「メインキャラクターが洗脳により一時離脱」という描写があり、こちらは絶大なインパクトはありましたが結局死ぬことはありませんでした。

そうしてシリーズファンが安心しきった頃、唐突に投げつけられた爆弾が「ベロニカの死」であったのです。

但し、ベロニカの死はこれまでに述べた「メインキャラクターの死におけるゲーマー的なストレス」からはかなり切り離されており、これまでに培われた経験が存分に生かされているように思います。例を挙げましょう。

・ 登場イベントから死の直前まで、かなり綿密にフラグが張られていた
・ 「唐突な別れ」として描写されるのではなく、「仲間が散り散りになり、世界を巡って再集結した最後の最後に死んだことが判明した」という展開
・ 死亡時までに蓄積された経験値や特技・能力上昇値は、別のパーティキャラへ完全に引き継がれる。また、以後の育成分はベロニカの成長度も加味される
・ エアリスと同様に「仲間と世界を守るための自己犠牲」が強調されているほか、仲間と家族がその死を悼む描写が丹念に挿入されている

そして、「(メインストーリー終了後ではあるものの、)『生き返る』のではなく『生きていた時間へと遡り、生存する未来を勝ち取る戦いへ挑む』形で復活を遂げる」というストーリーによって「生き返ってほしかった」という要望も完璧に満たし、同時に「死んだからこそよかった」と考えるプレイヤーへは通常EDの世界で停止させる…という選択肢を与えることで、不毛な論争を見事に回避させているのです。

以上を以て、

「ベロニカの死は、作劇的な観点でいうならばエアリスのオマージュを思わせる。しかし、ゲーム製作の観点でいえば決してオマージュではない。数多の先例と教訓から新たに導き出した、『ゲームにおけるメインキャラクターの死』に対する新たなアプローチである」

という結論を、私は提唱するものであります。

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