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【第一章全文公開】江口のりこさん主演!「ソロ活女子のススメ」ドラマ化決定記念

朝井麻由美さん著書『ソロ活女子のススメ』を原案としたドラマが今話題の女優江口のりこさん主演で4/2(金)よりスタートします!
そのドラマ化を記念して『ソロ活女子のススメ』の第一章を全文公開いたします!

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まずはあなたのソロ活診断から、どうぞ!

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*ではこちらより第一章全文公開です!*

第一章 ソロ活のススメ

胸を張って「ひとり」を楽しむと決めた話

 5年前の夏、あるWebサイトから「ひとり」についてのコラムを連載しないか、とお声がけいただいた。ひとりを楽しむことを「ソロ活」と呼び、その楽しさを啓けい蒙もうするのがテーマだという。
 それまで私は特に、声を大にして「ひとりが好きだ!」と言っていたわけではなかった。声をかけてくださった編集者さんは「なんとなく朝井さんに合ってそうだから」と言っていたが、なるほど確かに合っていたようで、以来毎日のように私は「ひとり」について考え続けることになる。
 連載を開始した当初、私は社会人として脂が乗り始めた頃で、おまけにしがらみゼロのフリーランス。私が今日は休みだと言えば平日だろうと何だろうと休みになる。娯楽に使えるくらいのお金なら稼げていたので、飲めや歌えのひとりライフを謳歌していた。けれど、表立って「ひとり」アピールをしていたわけでも、「ひとり」について特別考えていたわけでもなかった。というのも私の中で、ひとりでいることがわざわざ考えるまでもないごく当たり前のことになっていたのである。


「ひとり」についてじっくり考えてわかったこと

 はて、「ひとり」についてのコラム……。確かに私はひとりが好きだ。よくひとりで遊びに行く。いや、待てよ。そもそも私、ほぼ毎日ひとりで遊んでいないか……? しばし考えてようやく気づいたくらい、ソロ活が生活の一部すぎて、それが需要のあるコンテンツになるなどとはみじんも考えていなかったのである。
 ところが、いざ書き始めてみると、記憶の奥底に追いやっていた話が出てくる出てくる。ひとりを謳歌する生活が快適なあまり、私は「ひとり」が寂しいと感じていた頃のことをすっかり忘れ去っていたのだ。私にも、ひとりラーメンができずに立ち往生した日もあれば、ひとり焼肉をする勇気が出ずに枕を濡らした夜がある。「みんなと一緒」じゃないといけないと思っていたし、友達がたくさんいないとダメだと思っていた。私の中には「ひとり」に対してネガティブな偏見がたくさんあった。

「ひとり」を自虐したくない

 ソロ活の連載を始めたばかりの頃は、「ひとりでいること」「リア充のようないわゆるキラキラした世界に馴染めないこと」について自虐的な書き方をすることが多かった。その後、雑誌や書籍でひとりの快適さを謳うたった特集が組まれるなど、徐々に「ビバ・ひとり」の空気が生まれることになるが、私がソロ活について書き始めた当初は、まだまだ世間は自虐の風潮のほうが強かったと記憶している。
 みんなでワイワイしている輪の中に入りたいけど入れないから、ひとりで過ごすみじめなわたくしめでござい、といったスタンスで書くことが多かった。そのほうがみんなから面白がってもらえるはず、というのもあったし、私自身、特に深く考えずにそういうものだとも思っていた。けれど、あるとき気づいたのだ。自虐というのはそもそも、今自分が置かれている状況が間違いである、と思っているときにするものなんじゃないか、と。
 もちろん、周囲の反感を買わないための、生存戦略としての自虐というのもあるだろう。人に対して、「私は弱者です」とアピールしておいたほうが、人間関係を円滑に進める上でラクなのは否めない。
 でも、だとしてもだ。目的がなんであれ、自虐をした以上はつまり、「ひとり=寂しい=悪」、「みんなでワイワイ=楽しい=善」という前提のもとに行動しているということになる。ただ単にひとりで過ごすことが好きなだけなのに、ほかでもない私が自虐をしてしまっては元も子もない。

「ひとり」を肯定したら︑ソロライフがもっと楽しくなった

 今振り返ると、この頃は私の中で「みんなでワイワイ盛り上がることができない私はみじめ」「ひとりって自由で楽しい」という矛盾する2つの気持ちが混在していたのだと思う。
 けれど、連載を重ねていくうちに、ひとりでいること自体が楽しいんだから、自分がワイワイできないことに対して卑屈にならなくたっていいのだと思えるようになった。
「ひとりでいることが楽しいのにそれを自虐する自分」という矛盾に悩んだ結果、「よく考えたら、別にひとりでもいいじゃん!」「ひとりが好きって正直に言っていこう!」という道を見つけたのが今の私だ。
 私は単純に、ひとりでいることを肯定されたかったし、肯定したかった。ただシンプルに「ひとりが好きだ!」と胸を張って生きることに決めたら、なんだか憑つ き物が落ちたようにとてもスッキリとしたのだった。

「みんな派」も「ひとり派」もおいでよ、ソロ活の森!

「この本はこれからライトにソロ活をやってみたいという人も読んでくれると思うから、あまりネガティブなことは書かないように」と担当の編集者さんから釘を刺されている。私ときたら、放っておけばすーぐぐちぐちとネガティブなことを言いがちだからである。
 しかし困った。そもそもの私のソロ活人生は、集団にちっとも馴染めやしないという大変ネガティブなところから始まっている。そこに触れずしてソロ活を語れようか。否。けれど私は決して〝みんなでワイワイすること〞自体を否定したいわけではない。「ひとりが好きです」と言っていると、リア充と呼ばれる人たちのことを忌いみ嫌っていると思われがちである。最近だと、リア充よりも、パリピや陽キャという呼び方のほうが主流だろうか。

「パリピ」「リア充」はおひとりさまの敵?

 とにかく、人は相反する2種類のものを、〝vs構造〞にするのが好きな生き物だ。ゴジラvsモスラ、きのこの山vsたけのこの里、リア充vsぼっち。「自分もぼっちです!」と志を同じくする人に「リア充ってムカつきますよね!」と嬉々として同意を求められたこともある。
 でも、ワイワイする人がいるからこそ、ソロ活をする人もいる。地球上で誰もワイワイしなかったら、ソロ活もこの本も成立しないではないか。ワイワイも、ソロ活も、それぞれがそれぞれの森でともに生きよう、そなたは美しい、と私はいつだって『もののけ姫』的なメンタリティーでいるつもりだ。みんなで騒ぐのに疲れたワイワイ森の住人が、ソロ活の森に時折遊びに来たっていい。おいでよ、ソロ活の森。
 そういうわけで、私がネガティブなことを書いたとしても、それはごく個人的な、私がそう思った、というだけの話である。この人、こんなことに悩んでるの、アハハ、くらいに笑い飛ばしてくれたら本望。
 学校での集団生活スタート時にコケて、グループに入れず、「大人になってもウチら仲良しだよね❤」みたいな同級生女子がいない。ついでに言うと、びっくりするくらい結婚式に呼ばれない! 一応定期的に2人で飲んでいたような仲の子すら、知らぬ間に式が終わっていることをフェイスブック上で知る。なんなんだ! 呼んでもどうせ人見知りするだろうからという親切心なんだろうな、とありったけポジティブに捉えて強く生きている。
 ともかく、そんなトホホな生活をどう楽しもうか、というところから私のソロ活は始まっている。

好き嫌いの解像度を上げる「ソロ活セラピー」

 ソロ活をすることで、己を知り、自尊心を高め、自分のことを愛してやまないようになっていく「ソロ活セラピー」という言葉をご存知だろうか? 誰もご存知ではなかろう。なぜなら私が今、この場で作った言葉だからである。とはいえ、これはあながち間違いではなく、ソロ活にはそのようなセラピー的な効果が多かれ少なかれあると思っている。

自分の「好き」を具体的に知ってる?

 まずは「己を知る」というところから紐解いていきたい。果たしてこの世の中に、自分は何が好きで、何が嫌いなのかを正確に把握している人がどれくらいいるだろうか。10人にひとり、いや、100人にひとりもいないんじゃないか。
 もちろん、誰だってぼんやりとなら言えるはずだ。ファッションが好き、メイクが好き、あるいは読書が好き。じゃあ、その好きって、具体的にどう好きなのかを説明できるだろうか。
 例えばファッションが好きなら、ファッションの何が好きなのか。服を買うのが好きなのか、SNSで人のコーディネートを眺めるのが好きなのか、自分のコーディネートを人に見てもらうのが好きなのか、街で人のファッションを見るのが好きなのか、服を売る側になりたいくらい好きなのか、むしろ作りたいのか……。「ファッションが好き」という言葉ひとつとってもこれだけある。

ひとりの休日やることがない問題

 逆に、嫌いや苦手についても、その理由を正確に言える人は少ないはずだ。思っている以上に、自分の好きと嫌いの解像度というのは粗い。好きと嫌いの解像度が粗いとどうなるかというと、「急な休みの日に何をすればいいのかわからない問題」が発生するのである。
「今週末の土曜日、急に予定が空いてしまった。周りはみんな忙しくて、誰も誘えなかった! せっかくの土曜日なのにひとり。どうしよう……!」
 自分の好き嫌いがよくわかっていないと、こうなりがちだ。ソロ活村に住まう民にしてみれば、予定が何も入っていない休日が降って湧いたように現れたら、それはもう村を挙げての盛大な祭りが始まる合図。宴じゃ宴じゃ、と全力で大喜びするところなのである。
 行こうと思っていた美術展に行くもよし、観たかった映画を観るもよし。ひとりで過ごせる休日は、自分のやりたいこと、好きなことのストックをここぞとばかりに引っ張り出す大チャンスなのだ。
 そこで重要なのが、自分の好き嫌いの解像度。普段から解像度を上げておくのはソロ活を楽しむカギのひとつであり、もっと言えば、人生を楽しむコツでもある。

ソロ活経験値で「ひとりレベル」を上げる!

 さらにこの解像度、ソロ活をすればするほど上がっていくものでもある。ひとりでどこかへ出かけたり、何かをしたりすると、否が応でもソロ活の内容そのものとまっすぐ向き合うことになる。誰かと一緒にいるときにはスルーするようなことにも、自然と目が向くのだ。
 例えば、ひとりで焼肉に行くと、誰ともしゃべらずにただ「焼肉を食べる」という行為だけに集中することになる。メニューを選ぶのもすべて自分自身になると、今まで気づかなかった自分の好き嫌いやこだわりがはっきりとわかるようになるのである。
 初めてひとり焼肉をした日、私は焼肉ひとつとっても自分の好みについて何もわかっていなかったことを知った。メニューを開き、「とりあえずタン……」とタンのページで手を止めてはたと気づいた。「……私、別にタンのことそんなに好きじゃないのかも……今ここにいるのは私ひとりだけ。タンを介さずに、いきなりカルビに行ってもいいのでは?」と。ひとり焼肉をするまで、いかに自分が焼肉の部位に対してろくに考えをめぐらせたことがなかったか、と愕然としたのである。
 みんなで行く焼肉では誰かが最初に「とりあえずタン」と注文することが多い。いつ誰が決めたのか、そういうことになっている。世の中、「とりあえずビール」だし、「とりあえずタン」なのだ。それまでの人生で、何の疑問も持たずにいた「とりあえずタン」。ソロ活をすると自分の行動ひとつひとつについて考え、じっくり吟味しながら決めていけるのだな、としみじみ思ったのだった。

「やればできる!」ソロ活スタンプラリー

 ひとり焼肉は食べることにひとりで集中している分、味についての印象が普段より強く、数日たってもどの肉のどの部位がおいしかったかをよく覚えていた。誰かと一緒に食事に行くと、会話に脳のメモリの多くを割いて意識が分散してしまっている、ということだろう。
 食事だけじゃなく、イベント、アクティビティー……何でもそうだ。人と出かけるときは、そのスポットで過ごすことを介して「コミュニケーションを取る」のが目的となる。一方、ひとりで出かけると、「そのスポットで過ごすことそのもの」が目的になる。すると、その場所やコンテンツと、ダイレクトに向き合うことになる。その結果、自分は何が好きで、何が嫌いで、その場所や食べ物についてどう思っているのかが、より鮮やかになっていく。こうなればしめたもの。ぽっかり空いたひとりきりの休日も、やりたいことがどんどん浮かぶようになる。
 私はソロ活で行ったことない場所に行き、やったことないことをするたびに、頭の中でスタンプカードを押している感覚になっている。「やったことない」「行ったことない」ことに頭の中で「済」のスタンプが押されるたびに、強くなれる気がするのだ。「できるかな……?」と不安だったことも、やってみると意外とできてしまう。そんな小さな成功体験を繰り返し、誰に頼ることなくひとりでできることの数が増えるたびに、自分に自信がついていく。
 こうして己を知ることで、ソロ活で行ける場所が増えていき、「どこへでもひとりで行ける」という自信が自尊心を高める、というのが「ソロ活セラピー」の仕組みだ。ソロ活をするたびに、人は強くなれる。

「ひとり遊び」を楽しむための大事な発想

 ひとりの時間を楽しむためのカギとなるのは、「ごっこ遊び」的な発想である。「ひとりだと、誰とも話せないからつまらない」ではなく、ひとりならではの「楽しさ」を自分で考えて作り出すのだ。
 ひとりで遊ぶときの私の心持ちは、子どもの頃にリカちゃん人形やシルバニアファミリー、おままごとで遊んでいたときと実はあまり変わっていない。私にとって、リカちゃんもおままごともひとりで遊ぶのが当たり前だった。ひとりっ子かつ両親が共働きのため、家ではいつもひとり。ひとりで毎日リカちゃんにドレスを着せては脱がせてを繰り返していた。
 保育園では引っ込み思案ゆえに人の輪の中に入れず、部屋の隅でひとりおもちゃの野菜を切っていた記憶がある。その頃に培った「ひとりを全力で楽しむ想像力」が、ソロライフを謳歌する今に活きているように思う。

ひとりでやれば、常に「ひとり勝ち」

 そんな幼少期の経験から着想を得てやってみたのが、「ひとり人生ゲーム」だ。これがなかなかどうして楽しい時間を過ごせたので、その話をしたい。一体何を言い始めるのか、と思うかもしれないけれど、本気で言っている。
 そもそも、私は競争が好きではない。「早い者勝ち」などと言われると途端にやる気を失うし、『ぷよぷよ』や『桃鉄』では弱いCPU相手にラクして勝ちたい。ゲームは好きだけれど、競争はしたくなく、勝ちの喜びだけを味わいたいのだ。このゲームはあなたの勝ちが100%確定しています、と言われて始めるゲームでも、たぶんそれなりに楽しめる。シンプルに「勝ち」は嬉しい。「壁は高ければ高いほうが登ったときに気持ちがいい」などと歌った90年代のヒット曲があるけれど、私にはその気持ち良さがよくわからない。頑張らずに勝てるならば、それに越したことはないではないか。そこにスリルは要らない。
 そこで私は考えた。数人でやる対戦ゲームを、ひとりでやるのはどうだろうか、と。ひとりでやることの何がいいって、対戦相手がいないので、必然的に私が1位になることだ。頑張らなくても確実に優勝なのだ。素晴らしい。私が優勝であり、同時にビリでもあるが、そこは目をつぶるとする。

ずっと私のターン! 永遠に私のターン!

 ちなみに、そのときやった人生ゲームの箱には、推奨人数「2人〜6人」と書かれていた。残念ながら、ひとりでプレイすることは想定されていないらしい。まだまだ時代が追いついていないということか。
 それでも私はひとりでやる。コマとなる車を選び、1ターン目のルーレットを回した。するとなんと、しょっぱなから資金が5分の1に減る事態に見舞われた。止まったのは「ネットカフェでマッタリ。4000ドル払う」というマス。最初の手持ちは5000ドルしかないのに、いきなり「ネットカフェでマッタリ」したせいで、4000ドルを支払う羽目に……。手持ちはたった1000ドルになってしまったが、よく考えたらそれでもこの人生ゲームの1位は私だった。焦ることはない。安心してコマを進めて、お金を支払ったら、また私の番である。何しろ、ずっと私のターンなのだ。

人生ゲームで自分の人生に思いを馳せる

 そうこうしているうちに、早くも進路の選択を迫られた。少し先のマスを見ると、「もうすぐ社会人!」と書かれていた。つまり、今は就活中の学生なのだろう。さっきの「ネットカフェでマッタリ」のあたりは、中学生くらいだろうか。なけなしのお小遣いでネットカフェに遊びに行っていたのかもしれない。進路については、モデル等のハイリスクハイリターンな職に就く「専門職コース」と、普通の会社員になる「ビジネスコース」を選択できるようになっていた。私は会社員として生きることにした。せっかくひとりで人生ゲームをやっているのだから、より現実的なほうを選んで、人生という
ものに思いを馳は せたい。あと、ビジネスコースからひとつ進んだところの「ブログが大人気! 2000ドルもらう」のマスが気になっているのだ。ライターの端くれとして、人生ゲームの中でもブログのアクセス数は稼いでおきたい。それにしても、会社員生活を送る「ビジネスコース」に「ブログが大人気!」というマスがあるあたり、妙にリアリティーがある。会社員が副業で人気ブロガーになる今の時代性が、この人生ゲームにはきちんと反映されている。だが、ルーレットで1は出なかった。人生ゲームの中の私のブログは人気が出なかったのだ。悲しい。

ひとり遊びの醍醐味「ディテールを妄想する」

その後、給料をもらえるマスに止まる気配すらなく、「うんちを踏んだら金運アップ! 1万5000ドルもらう」「昔集めていたシールが高額で売れた。1万ドルもらう」「キャラクター事業で大成功! 4万ドルもらう」など、よくわからない収入で資金が潤っていった。会社の仕事はそこそこに、インターネットで夜な夜な稼いでいるのだろうか。こういうディテールにもきちんと思いを馳せたい。最初にも書いた通り、これは〝ごっこ遊び〞の一種なのだ。ひとりで〝人生ごっこ〞をしているわけだ。人生ゲームの中の
私が何に泣き、何に笑い、何を思って生きているのかを想像するのがこの遊びの醍醐味である。
 しばらく進むと、由々しき事態が発生した。なんと、ペアルックで取材を受けたのだ。こっちはひとりで人生ゲームをしに来ているというのに、何ひとつ〝ペア〞ではないというのに、どういうことなのか……。さらにルーレットを回すと、強制的にストップしなければならないマスにやってきた。なんとこのマス、「結婚」である。ひとりで人生ゲームをしているのに、結婚してしまった。ちなみにこの人生ゲーム、全員がここで必ず結婚をするらしい。ところどころリアルなマスが多かったが、ここにきて急にリアリティーがなくなってきた。人生ゲームの成婚率は100%だ。現実だとそうはいかない。

ひとりプレイで気づいたソロ活の〝良さ〟

 これが波乱の幕開けであった。先ほどの副業でたっぷり稼いでおいたお金は、家を買い、高級ディナーを食べることで立て続けに減っていくことになる。あまつさえ、資金が尽きているのにあろうことか「一身上の都合で仕事を辞め、フリーターになる」のマスに止まってしまった。こういう不運が続くときこそ、ひとりプレイの良さが発揮される。お金が減ってもへっちゃらなのだ。何しろ、何が起こっても私が1位! ストレスフリーである。ひとりで人生ゲームをやると、普段いかに周囲と自分を比べることで無意識にストレスを受けているかがよくわかる。
 結局私は、6万ドルほど借金を抱えたままゴールした。ゴール直前で、火星に移住してしまったからである。移住するのに25万ドルもかかったのだ。気持ちはわかる。きっと人生ゲームの中の私は、競争社会と人とのコミュニケーションに疲弊し、火星に逃げ込んだのだろう。それでも、借金を抱えていようが、火星に移住していようが、見事この人生ゲームの優勝を飾ったのは、私だった。
 集団行動の中で生きるのが「多少の不快を受け入れて、大きな快を得る」ならば、ひとり行動は「不快を極力取り除いて、快も最小限でいい」という考え方だと思っている。私は、人生ゲームで対戦してハラハラしながら勝つ喜びも、人とぶつかって乗り越えて絆を深める喜びも、要らない。戦わなければ無傷でいられるひとりの世界が好きだ。

ひとりカラオケはメリットがいっぱい

 ソロ活をすることのメリットについて、少しシステマチックに考えてみたい。かねてより私は、カラオケについては明確にひとりで行くメリットのほうが多いのではないかと主張していた。いわば、ひとりカラオケ過激派。カラオケはひとりで行く以外の選択肢を考えられない、と言い切ってしまうほど、ひとりで行くカラオケにはメリットが多いのだ(↓p104)。

ひとりなら超絶マイナー曲も歌い放題

 まず、カラオケとは大前提として、好きな歌を歌いたいときに行くものだ。今から私は、その前提のもとにひとりカラオケ論を展開する。だから、もしもこの前提が違っていて、「誰かに我が歌を、我が美声を聞かせたいからカラオケに行くのである」という人がいるならば、もちろん話は別だ。そういう人は、人とカラオケに行ったほうが間違いなくいい。
 さて、人とカラオケに行って、100%好きな歌だけを歌い倒せることって果たしてどれくらいあるだろうか。よほど気の置けない相手ならまだしも、基本的にはどうしたってその場の空気に合わせた選曲をせざるを得ないはずだ。アルバムの8番目に入っているような誰も知らないマイナー曲をいきなり歌うわけにもいくまい。
 たとえ知らない曲でも、手拍子やタンバリンで盛り上がるふりをし、スマホを見るのを我慢する。一緒に盛り上がりながら隙を見て次の曲を考えて入れて……人と行くカラオケって、多少なりとも〝見世物〞の要素が出てきてしまうのである。なんとなく知っている曲を入れてみたものの、いざ歌い始めて「やっぱりこの曲わかんなかったわー」なんて途中で演奏中止するのも、少し気まずい。
 ひとりで行くと、単純に待ち時間が減り、歌える曲の総数が多くなるのもメリットと言える。1曲あたり5分として、ひとりで行けば1時間で12曲くらい歌える。これがもし2人なら自分が歌えるのは6曲、3人なら4曲、4人ならたったの3曲だ。3曲という限られた持ち枠の中で、同行者のみなさまに向けて恥ずかしくない選曲をしなければならないこのプレッシャー!
 人と行くカラオケは、なんと難しいことだろう!
 そういうわけで、私はカラオケに関してはひとりで行くに限ると常日頃から声高に主張している。ひとりカラオケ過激派なのである。でも、今のところあんまり共感されたことがない。なぜだ!

お金だけじゃない! 気になるコスパ

 「ソロ活はお金がかかりそうで……」と言われると、もうぐうの音ねも出ない。ソロ活は確かに、多くの場合割高だ。それはもう、この世の摂理がそうなっているのだから仕方がない。ひとりだと肉に野菜に調味料、どれも使い切るのが難しいのと同じ。小さいサイズのケチャップが、通常サイズのケチャップをきっかりグラムで割った値段で売られているかというと、そうは問屋が卸さない。

過去最高にお金がかかったソロ活

 今までで最もお金がかかったソロ活は、リムジンの貸切だった。女子たちがドレスを着てめかしこんでパーティーをする、「リムジン女子会」をひとりでやってみたかったのだ。すべては憧れのリムジンに乗ってみたいがゆえ。乗るならいっそひとりで占領したい、という欲望のままに、私は予約ボタンを押していた。
 通常は1時間3万円ほどの貸切を10人くらいで割るため、ひとり3000円で済む。それがひとりで利用すると3万円すべて負担しなければならないわけだ。とはいえ、「広いリムジンをひとりで貸し切った」というなかなかできない贅ぜい沢たくな体験をした意味ではプライスレス。

コスパ良くソロ活を楽しむために

じゃあすべてのソロ活が割高なのか?と言われたら、ものは考えようである。食事やお酒の場合、みんなで飲み食いするよりもひとりのほうが結果的に安く済む場合が多い。誰かと行く「ちょっと1杯」が本当に1杯で終わることがあろうか。それがひとりならば、本当に1杯で終わらせることだってできる。
 例えば私の場合、1回あたりのひとり焼肉代は平均2500円(↓p137)。安ければ1500円くらいで済む。それも、激安店ではなく普通の店で、だ。焼肉代として考えたら結構安いのではないだろうか。
 皿にのっている肉をすべて自分で食べることになるため、だいたい肉2皿と飲み物でお腹がいっぱいになる。肉を食べたくて来ているだけだから、しゃべるためにおつまみや酒を追加し、長居することもない。飲み代ってだいたいは、〝だらだら長居代〞に課金しているのである。

ひとりだからこそ得をすることはたくさんある

 ソロ活は時間的な意味でコスパがいい、という考え方もある。カラオケなら30分でもひとりで歌い続ければそこそこの充実感があり、食事だって1時間も店にいれば長いほう。浮いた時間で別のことができる、と思うとお得ではないか。だって、お金は頑張って稼げば増やせるけれど、時間だけはどうあがいても有限なのだから。
 ディズニーランドやディズニーシー、USJにもお得ポイントがある(↓p183)。アトラクションの椅子はほとんどが2人掛け。奇数人数のグループで行くと、1席だけ余ってしまう。その余り席に入れてもらえる「シングルライダー制度」というのがあるのだ。
 適用されているアトラクション数は少ないものの、この制度を使えば人気アトラクションに5分も待たずして乗れる。何十回も「スプラッシュ・マウンテン」に乗り続けることだってできるのである。それだけ乗れば、チケット代の〝元を取った〞感がすごい。……そんなに何十回も乗りたいかどうかは別として。コスパとは、お金や時間の話のみにあらず。シングルライダー制度のおかげで並ばなくてもいいのは、心のコスパがいいというやつなのである。

恋人がいてもソロ活、既婚者でもソロ活

「ひとりが好き」と言うと、「じゃあ恋愛には興味がないの?」と聞かれることがある。私がテレビなどのメディアに出演するときも、「ひとりが好き」「ぼっち」「ソロ活」というキーワードと「独身」「未婚率」「孤独死」とが繫げて語られることがとにかく多いのだ。出演に至らなかった番組も含めて、ほとんどの出演依頼に「既婚・未婚」の話が登場する。
 一部メディアが好む理論はこうだ。「ひとりが好きな若者が増えているから、未婚率が上昇し、将来的に日本の人口が減る」。まるでひとりでいることが悪いことのように扱われるのである。
 私は、この理論に異を唱えたい。そもそも結婚=子どもを産んで当たり前、なんて時代はとうに終わっている。それに、ひとりで好きなことやソロ活を楽しむことは、ライフスタイルやメンタリティー、趣味嗜好のひとつであって、恋愛や結婚とはまた別の次元の話なのだ。

ライフステージが変わってもソロ活したい!

 実はソロ活についてコラムを発表していると、既婚者からの反響が思いのほか多い。「結婚していてもソロ活をしたい!」という声が多いことこそが、ひとりが好きであっても結婚する人は結婚する、という証拠だとも言える。だから、ソロ活と未婚率の上昇については、関係あるようでいて、ないんじゃないかと私は思う。
 「結婚しているから」「子どもがいるから」などの理由で、ひとりで好きなことをする時間がなかなか取れない人から「既婚者でもソロ活していいんだ、と勇気をもらいました」という感想をたくさんいただくと、ひとりの時間を必要とする人がいかに多いかと実感する。
 確かに考えてみたら当たり前で、結婚をしているからって、24時間四六時中、配偶者と一緒に過ごすことはおそらくない。むしろ、家の中に常に自分以外の人がいるからこそ、自分だけの時間の大切さを実感し、ソロ活への欲求が生まれるという見方もある。
 ちなみに、私の知り合いのソロ活女子たちは、結婚して子どもが生まれても、定期的に子どもを夫に任せて舞台を観に行ったり、旅行をしたりしている。
 ソロ活はあくまでも、人が選択するライフスタイルのひとつ。みなさまにおかれましては、ソロ活と未婚率と孤独死を結びつけて論じがちなメディアにはゆめゆめ騙されませんよう。恋人がいたって、配偶者がいたって、「ひとりの時間がほしい」と思ったときがソロ活の始めどきなのだ。

「生きづらい」と感じる人のためのソロ活

 人と一緒に過ごすと、元気になれる人と、むしろ疲れてしまう人がいる。この場合の「疲れる」は、「気疲れ」と言ったほうが近い。なぜ、人によってその度合いに差があるのだろう?そもそも、どうして気疲れしてしまうのだろう?

賑やかな集まりが「楽しい」人と「疲れる」人がいる

 気疲れというのは、他人に気を遣う、気を揉む、心配する、合わせる、楽しませる、取り繕う、など人といるときに無意識に行っているすべてによる〝ダメージ〞のようなものだと私は思う。ひとりが好きな人だけでなく、みんなでワイワイするのが好きな人だって、必ず気づかないレベルでの気疲れがあるはずだ。これを、ドラクエを代表するRPGでたとえてみたい。
 おそらく、みんなでワイワイするのが好きな人は気疲れに対する〝耐性〞のようなものがあり、本来なら100ダメージ受けてしまうところが20で済む、ということではないだろうか。逆に、耐性のないひとり派の人は、100ダメージをそのまま受けてしまう。5倍もダメージを受けるのなら、そりゃあしんどいに決まっている。
 人と一緒に過ごすことで受ける影響はダメージだけではない。人と笑い、共有し、楽しい時間を過ごすことでHP(体力・気力)が回復していくこともあるだろう。
 例えば現在の手持ちのHPを50として、人と過ごすことで生まれる回復が
50とすると、ダメージと回復はプラスマイナスでこのようになる。
みんな派(HP50) + 回復50 ―  ダメージ20 = 80
ひとり派(HP50) + 回復50 ―  ダメージ100 = 0
 大人数で食事に行った場合、みんな派は当初よりHPが増え、「今日は楽しかった」と思えるだろう。しかし、ひとり派は気疲れダメージによってHPが尽きてしまう。
 ひとりで休日を過ごした場合は、このダメージ計算は真逆の結果になる。ひとりで気ままに過ごす時間はHPを回復してくれる上に、ひとり派はひとりで過ごすときの「寂しさ」や「退屈さ」というダメージに耐性があるので、ソロ活をすると元気になる。逆に「みんな派」はその耐性がないので、ひとりでいることでHPが減っていく。
 もちろん実際にはここまでわかりやすくはならず、同じ人でもその日やそのときの気分によって、どちらがよりダメージを受けるか、どちらの回復量が多いか、というのは変わってくるだろう。大事なのは、自分が今、どちらを欲しているかを考えて、素直に過ごすことだ。

「ひとり派」にも色々いる

 ひとり好きを公言していると「私もひとりで飲みに行くのが好きなんです」と言われることがある。そうか、そうか、ひとりが好きなのか、お主もか、と嬉しくなって話を聞いてみると、「お店の人やほかのお客さんとたくさん話せるから」と続ける。 
 違う、そうじゃない……。私は「誰とも話したくないから」ひとりが好きなのだ。そこに見知らぬ人とのコミュニケーションはいらない。同じ「ひとり好き」でもよくよく聞くと全然違うことを言ってる場合がよくあるのだ。

「行きつけ」の距離感が苦手な理由

 同じ理由で、私は「行きつけの店」を持つのが苦手だ。少し前まで住んでいた街で、「行きつけ」ができかけた。木を基調にしたおしゃれな日本酒バーだった。フォアグラを使ったメニューがあるのも私好みで、仕事で疲れたときは決まって寄っていた。何かにお金を払ってぐちゃぐちゃな気持ちを吹き飛ばしたいときに重宝していたのだ。
 仕事柄、領収書が必要なので、領収書を発行してもらっていたところ、あるときから、こちらが何も言わずとも宛名の書かれた領収書をわたされるようになって、なんとなく行くのをやめてしまった。
「行きつけの店」になってしまった、と思った。店員さんとの無言のコミュニケーションが発生してしまったことを、領収書に書かれた宛名が物語っている。私は、私の存在を認知されたくないのだ。放っておいてくれ。宛名を先回りして書いておく気遣いより、毎回領収書の宛名を指示する関係性のほうが、私にとってはずっと心地良い。

コミュニケーションを省エネモードにする

 ちなみに、見知らぬ人や店員さんとのコミュニケーションを楽しむタイプのひとり好きにとっては、そこで得られる情報交換が魅力のひとつだそうだ。食材についての裏話や、その街についての情報、常連さんにしか出さない秘密のメニューを出していただくなど……。つくづく、コミュニケーション能力が高いって得である。それでも、海の生き物は海で、陸の生き物は陸で生きていくしかない。エラ呼吸ができないなら、エラ呼吸ができないなの生き方を選ぶしかないのである。
 私はコミュニケーションの燃費が悪い人間なのだ。多くの人が、誰かと会話をするときにエネルギーを1使うとしたら、私はおそらく10くらい使っている。おかげで、すぐにガス欠になる。私にとってソロ活は省エネだ。生きるのに疲れてしまわないように、エネルギーを消耗しない快適なライフスタイルのために、私は日々ソロ活をしている。

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