訳者注: ビュフォンは(Georges-Louis Leclerc, Comte de Buffon)は、フランスの博物学者、数学者、植物学者である。微分積分法を確率論の分野に初めて応用した人で、現在コンピューターを利用して確立を計算する手法の一つであるモンテカルロ法の基礎を作りました。フランス王立植物園の園長に就任してからは、王族の為のハーブ園に過ぎなかった植物園を世界中の植物を収集、研究する場に変え、優れた教育機関として運用を始めました。
ラマルクは、このテーマに関する結論で最初に注目を集めた人物である。この高名な博物学者は、1801年に初めて自分の見解を発表し、1809年には『動物哲学』(Philosophic Zoologique)において、また1815年には『無脊椎動物の自然史』(Hist. Nat. des Animaux sans Vertebres)の序文で述べている。これらの著作の中で彼は、人間を含む種は他の種の子孫であるという教義を支持している。彼はまず、有機物や無機物の世界におけるすべての変化が、奇跡的な介入ではなく法則の結果である可能性に注意を喚起するという、卓越した功績を残した。ラマルクは主に、種と品種の区別が困難であること、特定のグループにおいて形がほぼ完全に段階的に変化すること、そして家畜の生産物の類似性によって、種の漸進的変化に関する結論に導かれたようである。変化の手段については、生活の物理的条件が直接作用するものと、すでに存在する形態の交雑によるもの、そして使用と不使用、つまり習慣の影響によるものとした。例えば、キリンの長い首が木の枝を咥えるのに適しているようにである。しかし彼は同様に漸進的発展の法則も信じていた。そして、生命の形態はすべてこのように進歩する傾向にあり、単純な生産物が現在も存在していることを説明するために、彼はそのような形態は現在自然に生成されていると主張している*1。
訳者注: ラマルク(Jean-Baptiste Pierre Antoine de Monet, Chevalier de Lamarck)はフランスの博物学者で、下級貴族の出身でしたがフランス革命を熱烈に支持し、貴族の称号を破り捨て学問探求に耽溺します。「無脊椎動物(Invertebrata)」という単語を作り、日本ではラマルキズム(Lamarckism)または用不要説とも呼ばれる仮説を提唱しました。
*私はラマルクに関する最初の出版の日付を、イジドール・ジョフロワ・サン=ティレール(『生物界の一般自然史』第二巻, 405ページ, 1859年)のこのテーマに関する意見の優れた歴史から採用した。この著作には、同じ主題に関するビュフォンの結論が詳しく述べられている。興味深いのは私の祖父であるエラスマス・ダーウィン博士が、1794年に出版されたラマルクの『動物誌』(第1巻、500-510ページ)の中の誤った見解や根拠を大きく先取りしていたことである。イジドール・ジョフロワによれば、1794年と1795年に書かれ、その後長い間出版されなかったゲーテの著作の序文に示されているように、ゲーテが同じような見解の極端な党派であったことは疑いようがない。例えばゲーテは、牛の角が何に使われるのかではなく、牛の角がどのようにしてできたのかが、博物学者にとっての将来の問題になるだろうと述べている("Goethe als Naturforscher", von Dr. Karl Meding, s. 34)。ドイツのゲーテ、イギリスのダーウィン博士、フランスのジェフロワ・サン・ティレール(すぐにわかるように)が、1794年から5年にかけて、種の起源について同じ結論に達したのは、ほぼ同時期に同じような見解が生まれるという、むしろ特異な例である。
ビュフォン(Georges-Louis Leclerc, Comte de Buffon)はフランスの数学者、博物学者で、一時期は地方の徴税人を務めていたこともあります。彼の執筆した『自然史』(Histoire naturelle, générale et particulière、1749年-1788年、全36巻は、博物学の書籍でありながら芸術的な文体で書かれており、多くの言語に翻訳され、世界中の知識人に教養として読まれるベストセラーとなりました。
ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)は、ドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者、博学者です。小説『若きウェルテルの悩み』、劇『ファウスト』などあまりにも有名な作品を多数遺し、ドイツを代表する文豪として現代においても名を轟かせています。文筆家としてあまりにも有名なためそのほかの業績が陰に隠れがちですが、生物学や鉱物学の分野でも大きな業績を残しています。すべての植物は唯一つの「原植物」から変化して発生したとする考えや、リンネの分類学を批判し「形態学」と名づけた新しい学問を提唱して進化論の先駆者としても評価されています。
ジョフロワ・サン=ティレールは、彼の息子によって書かれた著書『生涯』の中で述べられているように、1795年という早い時期から、我々が種と呼んでいるものは同じ型から派生した様々な変化ではないかと疑っていた。彼が万物の起源以来、同じ形が永続してきたわけではないという確信を発表したのは1828年のことである。ジョフロワは、変化の原因として、主に生命の状態、すなわち "monde ambiant"に依拠していると考えていたようだ。彼は結論を出すのに慎重で、現存する種が現在変化しているとは考えなかった。それは、彼の息子が追記したように、"C'est done un probleme a reserver entierement a I'venir, suppose meme que I'avenir doive avoir prise sur lui. "ということである。
”C'est done un probleme a reserver entierement a I'venir, suppose meme que I'avenir doive avoir prise sur lui.”(仏):英語にすると”It is therefore a problem to be reserved entirely for the future, even assuming that the future must have control over it.” この問題は未来において制御されるべきであると仮定する、それゆえにこの問題は未来の人々の手に委ねることとする、みたいな意味です。
1813年、W.C.ウェルズ博士は王立協会で「皮膚の一部が黒人に似ている白人女性の説明(An Account of a White female, part of whose skin resembles that of a Negro)」を読み上げたが、彼の論文が発表されたのは1818年にかの有名な「涙と単眼に関する二つの論考(Two Essays upon Dew and Single Vision)」が発表されてからである。この論文で彼は自然淘汰の原理を明確に認めており、これが初めて示された認識である。黒人と混血がある種の熱帯病に対する免疫を享受していることに言及した後、彼はまず、すべての動物はある程度変化する傾向があること、次に農業従事者は家畜化した動物を淘汰によって改良していることを指摘し、さらに、この後者の場合、「芸術によって行われることは、自然によって、彼らが住む国に適した人間の品種が形成される際に、よりゆっくりとではあるが、同等の効果があるように思われる」と付け加えている。アフリカの中域に最初に散らばった少数の住民の間で偶然に生まれた人間のうち、その国の病気に耐えるのに他の種族よりも適したものがあるだろう。その結果、この種族は増加し、他の種族は減少するだろう。病気の攻撃に耐えることができないだけでなく、より精力の強い隣人と争うことができないからである。この活動的な種族の色は、すでに述べたように、暗色である。しかし、品種を形成しようとする同じ性質が依然として存在するため、時間の経過とともに、より色の濃い種族、より色の濃い種族が生まれることになる。そして彼は、これと同じ見解を、より寒い気候に住む白人にも広げている。私は、ブレイス氏を通じてウェルズ博士の著作の上記の一節に気づかせてくれた米国のローリー氏に感謝している。
訳者注: W.C.ウェルズ(William Charles Wells)はアメリカの物理学者です。異なる人種がどのようにして生まれたのかについて研究を行い、自然選択についての最初期の考察を行った人物として知られています。『種の起源』の初版が出版された時、ダーウィンはまだ彼の研究を知りませんでしたが、のちにその業績を知り、その研究が世界最初の自然選択の原理を示していることを第六版で敬意とともに紹介しています。ただしウェルズの研究はヒト、さらに皮膚の色だけに限定して考察を行っており、家畜の品種改良にその裏付けを見ることができると示しています。