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勝利至上主義は問題か

子供たちの全国大会を廃止する理由として「行き過ぎた勝利至上主義」が問題視されています。これは日本だけの問題かというとそうではなく、アメリカでも子供たちが燃え尽き症候群になったり、怪我が増えていることを問題視するコラムを見ることもありましたし、また最近は欧州のサッカークラブで若年層のクラブが加熱し過ぎている問題が指摘されていたりします。

勝利至上主義の問題点はここ2,30年でよく語られていますが、ではなぜ勝利至上主義がなくならないのでしょうか。私は勝利至上主義は一部の大成功を生むから魅力的なのだと考えています。スポーツに限らず厳しい環境をかちぬくセレクションシステムだと考えると確かに、勝ち残った一部の人間は強いと思います。

しかし、問題は一部の才能ある人のために大部分が犠牲になるので全体にとって非効率であるということ、さらに才能はあるが自由を好む人間を潰しやすいシステムでもあること、そして長期的にはスポーツそのものを嫌いになる人間が多くなることだと思います。

勝利至上主義の最大の特徴は、勝利以外の動機がない点です。勝利が至上であるから勝利至上主義と呼ばれます。さてでは勝利とはなんでしょうか。オリンピックで金メダルを目指すことは勝利になります。またもしかするとノーベル賞を獲得することも(意図的に狙っている方がどの程度いるかわかりませんが)勝利を目指すことなのかもしれません。受験で慶應大学を目指して合否が決まることもある種の勝利かもしれません。

五輪に出てみるとよくわかりますが、レセプションパーティーで出会うのは貴族の方達です。ものすごく引いてみれば五輪はクーベルタン伯爵が作ったコンテンツ生産システムです。ノーベル賞も、自身が死亡したという誤報の新聞記事に「死の商人死す」という文字を見つけ名誉を残すために創設したと言われています※この記事自体存在は確認できていないそうです。慶應大学は福沢諭吉先生によって創設されました。

つまり、レースを作ることと誰かが作ったレースで勝つことは質的にことなるということです。そして、現代は産業構造も大きく変わる中で、誰かが作ったレースを上手に勝ち抜ける人よりは、みんなが面白がって乗っかりたくなるようなレースを作れる人間をより欲しています。

「勝ちたい」というモチベーションは誰かが作ったレースのわかりやすい単一評価軸の中で競い合う思想でもあります。一方、創造性とはそのような評価から解き放たれたところで発揮される側面があります。複雑なタスクではわかりやすいインセンティブが逆に作用するとダニエルピンクは唱えました。

「行き過ぎた」勝利至上主義が問題なら、「程よい勝利主義」は問題なのでしょうか。私は勝ち負けは大事だと思います。そこに優劣があるのに隠しすぎると子供たちは余計に勘ぐります。ですから、勝ち負け自体は否定しなくても良く、勝利に向けて頑張っていいと思います。問題は勝利のための方法に制限が設けられていないことだと思います。将来を考えず数年間で子供を強くしようと思うなら、ほとんどの時間を練習に割いて言う通りに動くようにすればかなり成果が出ます。しかしこれが人生に大変な悪影響を及ぼすことは容易に想像がつきます。

練習時間と練習方法、子どもへの接し方などのルールを設け、それをしっかり守れば勝利を目指すことは問題ないのではないかというのが私の考えです。スポーツ界でルールが設定されておらず、それを発見し罰する構造もないままきているために、「行き過ぎる」わけです。

私はある種の勝利至上主義者でしたからその観点からお話しすると、最終的な勝負に最も影響するのは「楽しい」という気持ちです。これがない人間は長期間は戦えません。つまり子供のうちに叱りつける勝利至上主義はこの感覚を奪うので、本当の意味での勝利至上主義ですらないのかなと思います。

結局子供のうちは勝利があるとしてもたいして気にせずに楽しくスポーツをやることが、将来勝ちたい人間にとっても、ただ楽しみたい人間にとってもプラスの効果を生むという結論に至り、行き過ぎた勝利至上主義はいいことがないという立場に立っています。

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