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二つのわかりやすさ

わかりやすさとは何かと考えてみると、実は二つのわかりやすさが社会では混同して使われているように思う。一つはある主張や事実が抽象的に端的に表現されていること、もう一つはわかりやすい答えがあること。前者はよくわかりませんということをわかりやすく言うことはできるが、後者はそれができない。

例えばコロナに対して、性質などわからないこととわかることを整理した上で、わかりやすく説明し、結果どう対応すればいいかはまだわかりませんということはできる。ところがわかりやすさに答えを求める人は、一体私たちはどうしたらいいのかと混乱するか怒る。後者はわかりやすさを答えの意味で使う。

答えが欲しい人の期待に応えていくならば、徐々に事実が拡大解釈され物語が作られ始める。答えが欲しい人は、自分が何をすればいいのか、みんなは何をしているのか、今見ている人はいい人なのか悪い人なのかが知りたい。要するに自分の頭で考える余白が残っていることをストレスに感じてそれを放棄する。

考えるとは推論であり、編集能力のことだ。今回のウイルスは致死率が低く、感染しやすく、潜伏期間が長く、潜伏期間中にも感染するんですという情報で鳥肌が立つ人間とぽかんとする人間がいる。考えるということは、一つ一つには意味が薄い荒い情報を集め自分なりに推論することでもある。

ある食事会で誰かが「要するにこれはルビコン川なんですね』と言った。みんなうなづく中私だけが愛想笑いをしていた。調べると引き返せない分岐点という意味合いで使われるそうで、ようやく理解した。私がもし知識を持っていたら彼の話はとても端的でわかりやすかっただろう。わかりやすさは受け手の前提知識に影響される。

自分はどちらに属しているのか。簡単なチェックとしてはいったい何がわかりにくいのかを具体的に詳細に書いてみることだ。そしてそれを他人に見せる。答えを求める人は、モヤモヤした状態を分かりにくいと表現しているので具体的にと言われると何が分かりにくいと感じているのかがわかっていない。

分かりやすい方がいいのは間違いない。しかし分かりやすくするプロセスで避けられないのは、単純化だ。ほとんどのことは単純ではない中敢えて単純にする際に、何かを捨てざるを得ない。ここに発信者の能力問われる。何を捨てて何に注目したのかが見られている。

特に専門家の発信は背景に膨大な情報がある中で、捨てに捨てて単純化をしている。勘違いや揚げ足取りが起こる恐れがあっても、それでも伝えようとしている努力に想像が及ぶかどうか。実はやろうと思えばどんな優秀な人の主張も崩せる。正確には理解しようという努力を放棄しているだけれだけれども。

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