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自己肯定感やモチベーションの正体とはなんなのか

長文ファンの皆様おはようございます。

人を育てる機会があると、結局「自己肯定感ではないか」という結論に至ることがよくあります。しかし、そもそもの自己肯定感とは何かを考えてみると実は正体がよくわかりません。

「ありのままの自分を肯定する感覚」と書かれていることが多いですが、肯定には基準が必要で、基準自体は人間が人工的に作っています。人間が存在しなければ、肯定も否定もなくあるがまま、しかありません。

実際のところ自己肯定感は、自らの置かれた状況と周囲の関係、来歴、自己認識から生み出される心地よい心的状態をおおまかにまとめた言葉であるという感じがします。

それが本当にあるかどうかは置いておいて、今見えているある現象を説明するには、あると仮定した方が便利だから、と持ち出されたもののようにも思えます。似たものでは「モチベーション」があります。人間は「この複雑な事象を説明してくれるシンプルな真理」を求める欲求があるように思います。

過去の経験から、自己肯定感を高める取り組み、モチベーションを高める取り組みは失敗することがほとんどです。なぜかと言えば、結果に近いからです。美味しい食べ物を食べて気分が良くなるように、良い感じに努力できたり、より良く生きている状況が作れると、結果として自己肯定感やモチベーションが高まっているように思われます。

自己肯定感の高い定常状態があるとすればそれは生来の性質か、幼少期の環境によるものなので、大人はもう自己肯定感は取り戻せないという悲しい結論になりがちです。大人になって獲得できるなら、当然大人になって失うこともあるわけです。

仮に擬似的にでも根本的な解決を求めるなら、宗教が良い選択になるのだろうと思います。使命とコミュニティと儀式は選手のモチベーションを高めますがどれも宗教にはバランスよく組み込まれています。

人を説明する根本原理などなく、ただただ環境と来歴とその人の個性のバランスでしかないように思います。人生には根本的に解決できることと、対処をし続けるものがありますが、いまのもやもやの根本的解決として自己肯定感を求めると、失敗するように思います。

私たち現代人が持つ最大の見方の特徴は「中枢を持った一貫した個人」です。その見方からすれば、固有の自己肯定感があると考えたくなりますが、実際には人間は環境との相互作用によって存在し、変化し続ける中枢なき生き物だという感じがします。

スポーツの現場の感覚からは、今を自分なりに生きていった結果として高まっていた、が事実に近いように思います。

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