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説明と、納得と、限界と

昨日の話で、宮城さんがもしワックスの拭き取りの効果を事前に説明していたらどうだったろうかという質問があった。確かに事前に反復する行為の具体的な意味を知っておくと、本人にしても意識をしやすい。具体的な技術の使用イメージがあれば、より習得も早まるし正確に覚えられる。

本人が理解できるなら説明してからトレーニングを行うに越したことはない。だから基本は常に指導者は聞かれれば答えられなければならない。ただ、人間は全容を知らないとき納得ができるのだろうか。例えば体験した人には分かるが、体験したことがない人にはいくら言ってもわからないということがある。

食べたものを言葉と映像で伝える食レポというものがあるが、体験したことを言語で説明する世界はそれに似ている。いくら言葉巧みに説明しても、体験とは全く違う。味も匂いも言葉ではわからない。技術はもう少しわかりやすいが、例えば走りでいう乗り込みは体感するまでは正体がよくわからない。

乗り込みとは何かをいつも説明はするが、最終的に選手が理解するのは体験したときだ。ボックスジャンプを行い、片足でステップを上がり、ミニハードルを行い、スキップを行い、ある日これかと気づく。本人も半信半疑のままぼんやりとした的を狙っていき、最後に的を当てたときに全てがつながる。

ところが、こだわりが強い人、考えすぎる人は、動きが体に入らない。説明すればするほど考えすぎて勝手に解釈を変えてしまうし、こだわる人は話に聞くといやでもと体より頭で解釈しようとする。とりあえず素直にやってみることができない。この場合は説明せずにまずやって体感してもらう方が早い。

納得をするということは本人の知識体験、想像力に相当影響を受けていて、特に三次元的な動きの説明は説明してもまずほとんどの人は最初はわからない。説明して納得して動くプロセスは動きに関しては効率が悪い。なぜならば体験する前に体験したように理解できるほどセンスがある人は稀だからだ。

おそらく以上のような理由で、東洋的な型の世界ができたのだろうと思う。型は指導者の力量の影響を小さくしてくれるから、誰でもそれなりにうまくなれる。ただ、だからと言って説明を省いていいことにはならない。聞かれれば答えられるが、何をどこまで説明するかは相手の力量を見定めて決める。

自分で考えるということは素晴らしいとされるが、それは自分で自分の殻を破れない人間にとっては、同じレベルで堂々巡りし続ける可能性も含んでいる。今完全に納得しなければ動けない人間は、今の自分の限界を超えられない。分かるということは全身で起きることで頭はその一部に過ぎない。

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