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活動的であることで忘れようとしているもの

若い時は社会的にアクティブだった人間に久しぶりに会うと、鬱になっていたり活力が失われていて別人のようになっているということがあります。以前はそういう方と話をして「どうして活動的ではなくなったのか」と考えていたのですが、今は「活動的にならざるを得なかったのはなぜか」と考えるようになりました。

活動的である時は意識も活動も外に向かっています。外の問題を解決し、外での成功を考えています。外に向かって一生懸命になっている時は、意識が内に向かわないで済みます。失恋の苦しみから逃れたいと忙しくする人とよく似ています。その人が人生の前半で活動的でなければならなかったのは、時間ができれば外に向いていた意識が自分に向かってしまうからではないでしょうか。じっとしていると一番厄介で遠ざけていたことが頭に浮かんでしまい向き合ってしまう。こうした人にとっては何かに追われている状態の方が、何もない状態よりも心が休まります。しかしそれは自分の影から走って逃げているようなものなので、振り返らないから気づいていないだけで結局自分についてまわっています。

この活力を活かして、社会的に成功する人もいます。人生の前半の屈辱を成功によって払拭しているわけです。人間には人に言える感情も言えない感情もありますが、どちらも原動力であることには違いありません。例えばアスリートが成功するためには膨大な努力が必要で、正であれ負であれ感情をなくしてしまうのは勿体無いので、それを活用し矛先をうまくコントロールすることが大事だと言われます。どんなドス黒い感情だったとしてもうまく活用すれば役に立ちます。しかし一方で、この何かに活動的であり続けることに体力が続かずプツッとキレてしまう人もいます。立ち止まってしまったなら時間ができ自分と向き合うしかありません。

外に外に意識を持っていく人生は「仮想敵」を外部に作りそれを追いかけ戦う人生でもあります。常に外部に大事なものがありそれを努力し獲得することで幸福が得られるという見方です。こういう人にとっては幸福になるということすら闘いです。しかし、どこまで獲得したら幸せになるのかは実は当の本人もわかっていません。

この話は「足るを知る」に行き着くことが多いですが、そうすると「現状を肯定し現状に満足しろということか。苦しんでいる人もいるのにそれを見過ごせというのか」と怒る方がいますが、そういう話ではありません。この話がわからない人は「外に問題はあるのでそれを解決するし、成功は大切なので頑張って獲得する。社会に問題はあるので憤りもある。一方で今私は十分幸せである」という状態があることが理解できません。「足りないから埋める。それがモチベーションの源である」「許せないから怒る。怒っているから落ち着いてなんていられない」と信じているわけです。内なる世界はほとんど外の世界を投影したものになっていて、ですから外が不満足なら内も不満足なのです。故に内の課題であっても外の課題だと信じて活動的になります。

このことが良いわけでも悪いわけでもありません。そのまま成功するなら素晴らしいことだと思います。ただある日プツッと切れた時に問題の本質に辿り着くのは相当に複雑なものを紐解いていく作業になります。

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