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楽しむことを邪魔する自分の価値観の解説動画

この文章の解説動画の文字起こしです。


「楽しんでやればいいんだよ」というアドバイスをされることがあると思います。私もそれが一番大事だと考えていて、やっぱり人間、夢中で楽しんでやってる時が一番伸びますからね。ところがこれは難しいわけですね。楽しくやる、夢中でやるっていうのはとても難しい。

何が難しいかというと、何かをやっていくうちに周囲のプレッシャーが関わってくるからです。うまくやれたら褒められるけれど、失敗すると失望される。それをやっていくうちにだんだんうまくやらないといけない義務感を感じるようになる。義務感は楽しさと相性がよくないですから。絶対に勝たなきゃいけないんだとか、失敗しちゃいけないとか思うと、どんどん楽しさが失われていきます。

もうちょっと根本的なことをいうとですね、行動は全部外部とのやりとりなわけです。行動すればうまくいくこともうまくいかないこともある。外部から色々言われたりもする。

同じような環境でも楽しさを失わない人もいます。では楽しめるか楽しめないかに影響を与えているものは何なのか。それが「楽しむことを阻害する自分の価値観」っていう話なんですね。

決定的な価値観は自分自身の価値が何で決まっているかという捉え方のことです。楽しめない人は自分自身の価値は世の中にある様々なレースで、自分が上位に行くこと、優秀だと証明することで自分には価値があると見ているわけですね 

一言で言えば社会からの評価によって価値があるかどうかを決めている。正しいんですけれどもね。一方で、楽しい時には何が起きているのか。自分自身が素晴らしくても、素晴らしくなくても、なんと思われても、自分自身には価値があると思えているんですね。ではなんでこれが楽しむことに影響するのか。

例えば今から重要なプレーを行うとします。これで勝負が決まるかもしれない。今からやることで失敗したときに失うものは何かっていうのを考えた時に、失うものはもちろんあるんだけれど、それで自分は残っているじゃないかと思う人間には、あくまでチャレンジなんですね。

ホームがあり、そこから一歩でて、やってみる。うまくいくかもしれないし、いかないかもしれない。うまくいったら褒められるかもしれない。失敗したら馬鹿にされちゃうかもしれない。そうなったらそうなったで、しょうがないかともどってくる。

一方で評価と自分の価値が同じだとする人にとってみると、失敗は即自分の価値の棄損になります。絶対に成功しなきゃいけないと思っている人と、成功したらラッキー失敗したらまあしょうがないと思う人ではですね、挑戦の恐怖心があまりにも違うわけですね。どっちが楽しいかというとやっぱり後者ですね。挑戦はあくまで挑戦であって自分自身の価値の否定までは繋がらないと思っている人です。

一見すると逆に感じますね。全てを賭けている人の方が勝負には強そうに見える。だけど、長期的にみるとすべてを賭けている人間ではなくて、自分は自分で構わないと思っている 人の方が挑戦を長く続けていき、結果として成長することが多い。非常に皮肉ですけれどね。

ではなぜこういう人はこういう価値観をもつのかというと、要するに自分自身というもの、もう少し言えば人間の価値というものは、社会的に評価される、ランキングで上位にいくことによって決定されている、というようなことを刷り込まれて生きてきたわけですね。

世の中に出ている商品も常に評価を受けますね。お茶が5つ並んでてどの茶がおいしいから一番売れてるかなという評価と、自分自身が他の友達と並んでいて誰が一番上手いかなという評価が同じに見えている人にとってみると、やっぱり上に行かないといけないと思うわけですね。売れないお茶より売れた方がいいわけですから。

ではなぜそんな感覚を持つかっていうとやっぱりそのよう な環境にいたっていうことなんじゃないかと思います。こういう人たちは長く競技をやっていると、苦しさを覚えることが多いんですね。私も楽しくやりたい、と。

それで楽しそうにやろうとするんだけど、なぜか楽しめないわけですね。なぜならば楽しい楽しくないの前に、世の中を見ている自分の目線が変わっていないからですよね。結局のところ、物事の価値っていうのは成功しているか失敗しているかで決まってるよね、自分自身の価値もそれに依存してるよねと思っていると結局そこから逃れられないわけですね。

楽しくやりたい人は、楽しむことよりも、自分が世の中を見ているこの目線自体の転換にあるわけですけどもこれが中々難しいわけですね。何の転換かというと勝負は負けてはならないから、勝負に負けてはならないと思っている私がいる、という転換なんです。なぜ私はそのように思っているのだろうか、というところから楽しむことの全てが始まっていくわけです。

この転換は難しくて、すぐできる人、できない人もいるけれど、多くの人が問いかけていけばできるようになるんじゃないかと思います。

本当に引いて見るとですね、ちょっと誰かより速いとか優れているとかっていうのは、何の差でもなくてまあそもそも何が優劣かどうか自体を決めているのは人間なわけです。

固定化された価値観の中で私たちはレースを頑張っているわけですが、価値観がなければ、善悪もないし優劣もないわけですね。生物というのは自分で生まれてくるわけじゃなくて、誰かに生まれさせられる、気がついたら自分の意思ではなくて生まれてきて、与えられた条件の中で右往左往して、時間が来たら死んでいく、全体のプロセスの一部でしかないわけですね。

だけどただ生きているだけでは辛いと。そこに意味とは何だ、価値とは何だ、社会的な評価を受けて、というところにはまっていくと楽しさというのはどんどん消えていく。そこから放たれて何事も意味はないんだと思うと、なぜか楽しくなっていく。っていうそこの辺 の価値観の転換をどうするかがとっても 大きいんじゃないかと私は思っています。

「踊る阿呆に見る阿呆同じ阿呆なら踊らにゃ損損」

というのがあるんですね。いってみれば夜中空なわけですね。全て、何の意味もないんだけれども、だったら面白がろうじゃないかっていう生き方が、私は楽しく生きていけて幸せなんじゃないかなと思っています。

世の中には意味がある、価値がある、そして自分は価値がある人間にならなければならないと思うことで、楽しさが逃げていく。この矛盾とどう向き合うか。それを考えたのが「楽しむことを阻害する自分の価値観」という話だと思っています。


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