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暇の考察


暇や余白は人間に何をもたらすのか。人間以外の生き物は生きて遺伝子を残すために必要エネルギーと、それを獲得するために消費する量がほぼバランスしているので、大雑把に言えば消費を抑えているか獲得しているかの二つしか日常にないと思われる。やることはないがエネルギーは十分という状態がない。

そう考えると生物である人間はエネルギーが十分かつ目的がないという状況、つまり暇に適応していないように思う。狩猟時代も余白はあったではないかと言われるかもしれないが、それは次の狩りのための余白であって、長期間にわたって明日のエネルギー獲得の心配もしないという類のものではなかったと思う。

暇の時間にも次の準備をしてしまっているように思う。周囲に警戒をしたり、この先に何が起こるかを想像したりという、過去どのような状況が危険だったかを振り返ってそれを避けるという生存に有利なはずの頭の動きが、暇を手に入れてしまった今では、過剰に働き人間を不安に陥れる。

社会が共有しているのは価値を生み出すことはいいことで、価値を生み出す人は素晴らしいという価値観だろうと思う。この価値観が仕事の上では価値の追求につながるが、価値の追求が素晴らしい仕事⇄なんの生産性もない暇の世界は相性が悪い。暇の時間も何かに活かすならそれは価値の追求の一部になる。

おそらくスポーツが生まれたのは人類が暇を手に入れてしまったことが影響している。スポーツの語源はデポルターレでラテン語で日常から離れるという意味が含まれている。暇つぶしとしては長生きしている。このように生活を破綻させず、幸福度を高める暇つぶしをこれまで人類は開発してきた。

お金がかからず(自分の収入に対し)、継続しても不健康にならず、社会に迷惑をかけず、自分の意思で加減をコントロールでき、(人によって違いはあるが)人と交流することができる暇つぶしを手に入れた人は幸福な人生を送るだろう。仕事より暇と向き合うことが苦手な人は不満を抱きやすいと私は思う。

幸せな人は暇の過ごし方がうまい。

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