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忠誠の時代 自由の時代

リモートワークの推進、五輪前のごたごた、スポーツ競技の移籍制限撤廃、個人のキャリアの不安など、一見関係のないこれらの事柄には一連のつながりがあると感じています。根底には「ムラの文化」から「個人の文化」への移行があるのではないでしょうか。

「ムラの文化」とは「組織は個人より重要」「忠誠心が大事」「強制を許容する」「ムラの掟は社会のルールより上位にある」ではないかと思います。これが個人の文化になると「個人は組織より重要」「忠誠心より具体的貢献」「したくなるように促す」「ムラの掟より社会のルールが上位」になります。このような視点で見ると内部告発は裏切りではありません。社会のルールに照らし合わせてムラの掟も評価されているからです。副業もやましいことではありません。副業がやましいと感じるのは組織に忠誠を誓うことが前提になっているからです。ある人にとってこのような文化は、忠誠心や仲間意識がなくこれでは組織が成り立たないと感じますが、ある人にはこうした方が自由を好む優秀な人材が集まるのでよい組織ができると感じます。

「個人の時代」が到来すると能力のある人にとっては自由を手に入れいいことがたくさんあります。他方、能力が足りない人にとっては自分で自分の面倒を見るしかなく、ある世代より上は急に途中で放り出された気分になるかもしれません。「こんなに好きにさせといて勝手に好きになったはないでしょう」と長渕剛も歌いましたが、あんな感じです。組織に忠誠を誓っても組織は面倒を見てくれません。自分の人生を決めるのは自分以外におらず、自分以外に責任を取る人もいません。

組織の間を動く人が多ければ多いほど、複数の組織にまたがって活動するほど、組織特有の常識は通用しなくなります。あちらの常識はこちらの非常識ですから、暗黙のムラの論理で通っていたものが通らず「それは非常識ですよ」と、世間の共通の理屈によって裁かれるということです。もう少し平たく言えば「固いこと言うなよ」が通じなくなると言うことです。急に世間が厳しくなったと感じている人はムラの論理に染まっている可能性が高いのかもしれません。

ムラ社会においての「仲間」は家族的な意味合いで使われます。仲間のものは俺のもの、俺のものは組織のもの、です。私的にもつながり世間に反してでも仲間を守りますし、組織のルールが世間のルールより優先されます。反社会組織が上の人間を「親父」と呼ぶのは、組織のルールを徹底するために家族的になろうとするからだと思います。

この大きな流れが見えてない人はいきなり今まで許されていたことが許されなくて傷ついたり、なんでと怒ったりします。しかし、この流れはいいか悪いかはおいておいておそらく止まらないでしょう。個人が一度個人を堪能したらもう組織には戻れません。もちろん忠誠は今後も重要ですし、強固な組織も存在します。しかし、全体を通しての大きな流れは個人の解放に向かっていると思います。

個人の時代が訪れつつある中、最大の問題は「孤独」となります。組織の枠組みが緩んだ今組織内だったとしても「個人」を救う理由はありません。逃げられなければ向き合うしかないですが、逃げられるなら嫌な人や面倒臭い人からは当然逃げます。組織の枠組みが緩いということはそういうことです。集団に居続けさせる強制ができないということは、明日自分が組織をスッと抜けてもいい代わりに、明日大事な人がスッと抜けていなくなるかもしれないということです。私たちはつながりを持ち孤立させない方法を考え作り上げないといけません。大きな枠組みの中では私たちは同じ船に乗っているのですから。

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