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希死念慮があったあの若者へ

希死念慮がある若者と話をしたことがある。「死ぬのはよくない」とみんな言うけれど、なぜ自ら死んではならないのかを誰も説明してくれないと言っていた。その時はその時の自分なりに、死んではならない理由を話した気がする。今もし彼にあったら私はなんと言うだろうか。

生きていればいいことがある。だったらいいことがなければ生きなくてもいいのか。悲しむ人がいる。悲しむ人がいなければ生きなくてもいいのか。許されないことだ。誰が許さないと決めたのか。そしてもし死んだとしてどう罰することができるのか。どれも説明としては不十分に感じる。

私は自死を選んではならない理由は、自分は完全には自分のものではないからだと考えている。いやそんなことはあり得ない。自分の身体は自分のものだし、自分の思う通りに自分は生きていくことができると言うかもしれないが果たして本当に私たちは自分の身体を自分の思う通りにできるだろうか。

私たちはある種の共同作業を行っている。それぞれに自由はありながら、それでも共同体のルールに従い共同体になんらかの貢献をすることで、共同体は成立している。納税も富の再配分であり、もしも誰も稼がなければ立ち行かない。個人の自由があるようで皆が一斉に活動をやめてしまえば共同体は崩壊する。

体罰は指導者と指導される側の両者の合意がとれた場合、それを抑止するのは二人の自由の侵害にも見えてくる。体罰が当事者ではない第三者の心に与える影響を考えないと説明がつかない。そしてそれは突き詰めれば自分の身体は本当に自分だけのものなのかに行き着く。

吉野弘さんがI was bornという詩の中で、ひたすらに子供を産み命をつなぐ蜻蛉を見て『ああ人間は生まれてくるのではなくて生まれさせられるのだ。自分の意思ではないんだ』と気づく場面を描写している。そもそも人生は受け身で始まる。自分の意思で生まれた人は誰もいない。

まるで社会全体が一つの生き物のように、そしてその生き物の細胞はどんなに足掻いても生命体の一細胞という枠組みから逃れられないように、本当の意味で全てから切り離され自由な意思を持った個人というのは存在し得ないのではないか。だから自分で自分の死を選ぶことが禁じられるのではないか。

このようなアイデアはとても息苦しく、全体主義のような押し付けがましさを感じる。どう考えても私たちは個人の自由を尊重するべきだと思う。ただ、時に人は完全な個人であり自由であるというよりも、あなたは全体の一部であり、一人ではないと言われた方が救われる時がある。

人間の悩みや苦しみはたった一人で抱えているようにみえて、実は同じように苦しんでいる人がどこかにもいる。悩みながら生きることは、その人たちに一つの例を見せることにもつながる。私が悩んでいるように見えて、あの人のために悩んでいることでもある。範囲に違いはあっても他者に影響を与えない人生はない。

こうしていくら考えても、あの若者の納得しない顔が容易に頭に浮かぶ。考え尽くして疲れ切って『とりあえず今日はやり過ごして、明日また考えてみようか』ぐらいしか私には言えないだろう。人生には時々出ては消えながら、ずっと折り合っていく類の問いがある。最後まで結局よくわからないと言いながら。

みんな役を演じているだけなんだよ。

こころの健康相談統一ダイヤル 0570-064-556

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